スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「専門研究」は「評論・解説」より難しいか?

FAで他球団の4番バッターやエースばかり集めても、プロ野球で圧勝できるとは限らない。
学界も同じである。

阪大では(私が勝手に)「ヒストリーコミュニケーター養成」をうたっているが、そうすると「阪大(東洋史)は専門研究はたいしたことがないでの、かわりに評論家・解説者の養成をしているのだ」というイメージをもつ人が出てくる。その場合たいてい、専門研究が評論・解説より優れた(ハイレベルで困難な/先にやるべき)活動だという前提がある。

個々人では当然、「専門研究はたいしたことがなくて、評論・解説が得意」という人間がいる(私?)。その逆もいる。
だが、専門研究は困難で、評論・解説が易しいというのは、とんでもない素人の勘違いだ。両者が別の高度な才能や訓練を要することは、外国語の日常会話の習得と学術論文の執筆や翻訳能力の習得がまったく別物であるのと同じである。

博士号を持っていないとできないような評論・解説を軽視するのは、プロ野球で「いやらしい2番打者」「セットアッパー」「ユーティリティ・プレーヤー」などを低く評価するのと同じことだ。それらのプレーヤーはもちろん、大部分が高校時代は強打者やエースだったわけで、高度な基礎能力をもつ。そのうえで、プロではエースや4番とは違った道を目ざす。それと同様に、阪大では漢文・英語などの基礎をきびしく仕込んだ上で、評論・解説や国際発信のトレーニングをする。だから、世界トップレベルの専門研究者も育つ。
私は自分の概論の授業でいつも、阪大東洋史や史学系全体を、高校野球におけるかつてのPL学園、最近の大阪桐蔭にたとえている。

これに対して人文系の大半では、いまだに研究者志望の院生全員を、漫然とエースや4番にしようとしていないか(プロのエースや4番は型にはめた指導でなく放し飼いで育てるものだという点を含めて)。解説・評論はそこから外れた「二流」やそれをしおえた「ベテラン」が自己流でやっていけばいい、という古い仕組みを放置していないか。

「すぐれた専門研究」がなければ、もちろん評論・解説のしようがない。だが、「すぐれた評論家・解説者」のいない学界は、衰退を免れない。「阪大史学」は(メンバー全員がというわけではないが組織として)二兎を追っている。それは日本に、そうする組織・個人があまりにも少なすぎるからだ。

ついでに、こういう話題を拒否するタイプの「専門研究者」の著書や論文は、たいてい「はじめに」「おわりに」がつまらない。つまり自分の研究の位置づけ・意味づけができない。そういう研究者も一部にいていいのだが、そういう研究者ばかりの学界で、本当にその「専門研究」は発展するのだろうか。
関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセス・カウンター
あなたは
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。