植民地協力者?

政府の「主権回復記念式典」に、沖縄県の副知事として高良倉吉先生が出席したとのこと。
どんな気持ちだったろう。
「(首相の)式辞を聞く範囲では非常に納得したというか、理解できた」と記者団に語ったそうだが。

保守派知事の下であえて副知事になり、こういうところに出てくる道を高良先生が選んだことを、われわれに批判する資格などない。
ただ歴史上には、「植民地協力者」の道をあえて選び、やはり悲惨な結果に終わった人物もたくさんいる。
協力者や買弁イコール悪というような史観を卒業した現在の歴史学からみても、そのことは認めねばいけない。
高良先生をそうさせたくはない。そうさせてはいけない。
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大ベトナム展(7)~南の中華帝国ベトナム~

グエン(阮)朝の皇帝の冠が2点出品されている(図録No.49、50)。どちらも5本爪の竜が描かれている。
タンロンでも、私の授業に出席した学生は毎年見ているように、5本爪の竜を描いた15世紀の青花(染め付け)の碗が出土している。
中国で、5本爪の竜が皇帝にしか許されていないことはご存じの通り。
そう、ベトナムは10世紀以来一貫して、独自に皇帝の称号を用いて中国に対抗してきたのだ。同じ小中華タイプの国家でも、朝鮮とは対照的だ。

といっても10世紀の中国では、分裂状況のもとで南中国の「十国」のいくつかが皇帝を称しており、宋王朝がそれらを全部つぶす前の968年(もしくは966年)に皇帝を称した大越も、当初は「自立した節度使政権」いわば「10国ならぬ11国のひとつ」に過ぎなかった(拙著『中世大越国家の成立と変容』序章)。

しかし宋が南中国まで統一してしまうと、こうした論理は無意味になる。そこでおそらく、古田元夫氏が「南国意識」と名付けたような、「中華世界の南半を占める帝国」というイデオロギーが構築されてゆく。14~15世紀に『大越史記全書』のような歴史書や、『粤甸(えつでん)幽霊集』『嶺南摭怪(せっかい)列伝』などの伝説集の編纂とともに、「北国(現実の中華帝国)と対等で、それとは区別された独自の領域、文化、歴史をもつ南の帝国」という理念が確立する。つまり中華世界がつねに南北朝状態なのだ。

19世紀の阮朝は、その前の分裂時代にメコンデルタまで広がった領域を統合し、空前の大帝国を築いた。
そこでは、黎朝までの「大越」の継承者という理念と、「南部から出て北部を平定した別の国家」という理念が併存していたが、中国との関係では「自分こそ南の中華」という意識を強め、1838年には清に認められた越南の国号を、大南に改める(もちろん清には隠して)。近刊の『グローバルヒストリーと帝国』所収の拙論をはじめ、何度も書いてきたように、中国に朝貢せずに独自の帝国(中国と対等な)を志向した日本、中国の冊封を受けほとんどの時期に称号は国王で我慢した朝鮮、中国の冊封を受けながら中国に隠して皇帝を称し続けたベトナムの三者三様のありかたは、実に興味深い。

今日のプロ野球はがっかり。もっともライオンズ菊池、ホークス武田など若い力の活躍は見ていて楽しい。
ファイターズは小谷野の復調、中田の進境、アブレイユの日本への適応とクリーンアップがすごくよくなってきたので(おまけに両武田も出てきたし)、例年通り上位進出しそうな感じだ。





大ベトナム展(6)~大越の国号~

ベトナム史の概説書には通常、『大越史記全書』(15世紀後半に編纂された編年体史書。現存するのは17世紀の増補版以降の諸テキスト)にしたがって、968年にはじめて北部ベトナムで皇帝を称した丁部領(ディン・ボ・リン)は国号を大瞿越(ダイコーヴィエット)としたが、1054年に李聖宗が大越に改めたと述べる。ハノイで私が留学したハノイ大学ベトナム語科(当時)の近くにもダイコーヴィエット通りという大通りがある。

しかし今回の展示(No.32)には、10世紀のタンロンで使われたらしい「大越国軍城磚」という文字入りレンガが出品されている。実は同じものは、10世紀の旧都(タンロンに1010年に遷都する前の、丁朝・前黎朝の都)ホアルーから見つかっていることが、以前から知られている。

拙著『中世大越国家の成立と変容』(p.9)でも書いたのだが、おそらく大瞿越は大越史記全書の間違いである。「瞿Cồ」はチューノムとしては「大きい」「巨大な」「至高の」などの意味があり、李朝の金石文などには同じ意味と思われる「巨越」「鉅越」などの表現が見える。つまり10世紀から李朝にかけては、純粋漢字の「大越」と「おおきい越」という漢字仮名交じり的な表現が併存していたと考えられるのである。

こののち18世紀末まで、ベトナム王朝はほぼ一貫して大越の国号を使い続けたはずなのだが、15世紀の文献に頻出し17世紀末の日本宛書簡にも用例が見える「天南国」など、よくわかっていない国号が実はある。「越南」も公式の使用は阮朝からだが、その前からあったという話はいろいろ知られている。いずれにしても前近代ベトナムの国号とそれを通じた自己規定は、「越」という一種のエスニシティと、「南」(中華世界の)という方向性を軸に展開していたのである。

海域アジア史の新刊書

海域アジア史に関連のある新刊書が相次いでいる。大きな研究の流れになったものだ。
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その海域アジアの「聖地」のひとつは沖縄である。沖縄の人たちの気持ちを想像すると、「主権回復の日」にはツイッターで書いたような文句をいいたくなる。

ここから先は本土と沖縄の両方からものすごく怒られそうな話だが、日本政府が一貫してとっている「基地を我慢させる代わりにカネを出す」政策は、金額がセコすぎて話にならない。安全保障上、沖縄県だけを他の都道府県とはっきり別扱いしているのだから、本当にウチナンチューを同胞だと考えるなら、通常の地域振興予算の枠内で考えるのは正義に反する。
本当にカネで解決する政策を貫くなら、今より1ケタ多い金額を住民一人一人に給付するとか、さもなければ沖縄県民は税金や社会保険料をタダにするとか、要するに一部の石油輸出国の国民並みの待遇ぐらいはしてもバチは当たらないように思われる。個人の優遇はどうしてもダメだというなら、沖縄からの輸出は1ドル500円、輸入は逆に50円という特別レートを適用するという方法も考えられるが、それでは本土の企業(よりむしろ中国企業?)が殺到して利益を独占するかもしれない。それより東証一部上場企業が沖縄に本社を置いて一定以上の人数を居住・勤務させたら法人税を大幅減免するという方法は無理かな? 大企業が集中すれば、みんな必死になって米軍基地撤去や移転に取り組むだろう。

マルクスは遠くなりにけり

先々週~先週の授業から
・史学概論の授業で。教科書(福井憲彦「歴史学入門」)の第1章をベースに、近代歴史学の大きな流れを解説。教科書にも戦後歴史学の「社会経済史」と、アナール派「社会史」との違いが(われわれから見ればはっきりと)書いてあるのだが、「社会経済史」と「社会史」を混同したコメントカードがいくつもあった。

・東洋史の「合同演習」第1回の毎年恒例、博士後期課程院生による「東洋史学史」で、毎年指摘してきたのだが今年も、マルクスが唱えた発展段階の図式(スターリンが「世界史の基本法則」に整理したものでなくもともとのマルクス・エンゲルスの--もちろんそれは揺れているのだが)や、それは世界史の図式か一国史の図式か、「生産様式」と「国家などの上部構造」はどう関わるのかなどの説明がうまくできない。日本のマルクス主義と歴史学研究会のことも適切な整理ができない。それができないままで形だけ、中国史の時代区分をめぐる歴研派と京都学派の論争の「どの時期を古代や中世・近世といったか」だけ紹介するものだから、新入生には何の意味があるのかさっぱりわからない。わからない説明に時間を費やすぐらいだったら、「皇国史観への反省からマルクス主義が流行した。おわり」で済ませる方がよほどよい。やるなら、去年の7月末にこのブログで書いたぐらいのことを(あれはちょっと下手なまとめをした部分があるのだが)勉強してからやってほしい。
 ちなみに、東洋史学史の担当者が以前の毎年のように1949年歴研大会の「世界史の基本法則」ばかりコピペで繰り返すが、1950年の大会テーマ「国家権力の諸段階」を無視しては時代区分論争もなにも説明にならない。とくに今回のように、秦漢帝国をめぐる西嶋定生の旧説から新説への転換にふれるならなおさらだ。

・さて、この東洋史学史で「世界史の基本法則」が大流行した背景として、「中国革命で中国が資本主義日本より進んだ社会主義国家になった」というとらえ方のインパクトをあげていたのは正しいのだが、「中華人民共和国イコール(最初から)資本主義政権」といった理解をしている学生もいたようだ。最近の中国しか知らない学生にはもっともなことかもしれない。そういう学生の誤解を説くような丁寧な世界史ないし中国史概論の授業をどこかでしなければなるまい。

・もう1点、例年言ってるのだが、歴研派がすたれた後の東洋史について、「グランドセオリーの消失」と多様化だけ述べておしまいというのは、1980年代まではよくても、2010年代の東洋史学史としてはあまりに古い。上で書いた2回生向けの史学概論で、歴史学の全体動向として、世界システム論とグローバルヒストリー、社会史、国民国家批判、環境史、ジェンダー史などの大きな流れについては紹介しているのだから、東洋史学史でもそれにある程度対応してもらわねば困る(ちゃんとやった院生も何人かいたが)。とくにアメリカと中国の学界がグローバルヒストリーのうちの「近世中国は偉かった」という部分を強く受け入れている点などは、学部生に必ず教えるべき事柄ではないのか。

博士後期課程の院生の東洋史学史が、こういう点で合同演習の仕組みができたころのまとめ方を漫然と再生産している部分があるとすれば、歴史教育研究会のお膝元にある大きな弱点と反省せねばなるまい。

大ベトナム展(5)~フエの広南阮氏?~

大ベトナム展には、大航海時代のヨーロッパ人が作ったアジア地図に日本でカナや漢字を書き込んで保存したものが数点出品されている(図録No.67~74)。そこにはベトナムの地名がいろいろ書き込まれており、図録の解説文にも書き起こしてある(カナは崩し字なので、われわれ素人には読めないものも多い)。

そこで注意すべきことがらの一つに、朱印船の渡航先のトップである広南阮氏の本拠「順化」がNo.74の1点にしか書かれていないことである(岩生成一『朱印船貿易史の研究』によれば、朱印状でも渡航先を順化<「ソンハ」「スノハイ」などと読んだらしい>にしたものは2通しか残っていない)。

いうまでもなくその直接の理由は、広南阮氏と貿易しようとする外国船の多くが、順化(ベトナムの行政単位では「承宣」または「道」)と呼ばれた地方つまり現在のビンチティエン地域でなく、港市ホイアンのある広南地方(現在のダナン市・クアンナム省。先日書いた「迦知安」も同じ)に渡航したことである。所期の広南阮氏政権は、皇子を「広南営」に置いて、貿易の監督をさせた。「広南阮氏」という研究者の呼称自体が、当時の外国人が阮氏政権をその貿易中心にちなんで「広南(西洋語ではクイナムなどの発音)」と呼びならわしたことにもとづく(他に西洋人はコーチシナ、日本人は交趾・河内などと表記)。

しかしもう1点、注意すべきことがらがある。「フエに都を置いた広南阮氏」という表現が概説書などによく見られるが、実際に広南阮氏政権(1558~1777年)がフエ(富春営)に恒久的に中心を置いたのは1691年以降のことである。それ以前の阮氏は、所期には北部の黎朝=鄭氏政権とのにらみ合いの最前線(北緯17度線のすぐ北!)に当たるクアンチ省の愛子営、茶鉢営、葛営、17世紀なかば以降はフエ近郊の福安営、金竜営、博望営などを点々としていた。「営」は軍事拠点であり、大航海時代の広南阮氏政権は安定した政権というより「軍団」にすぎなかったのだ。

今回展示された地図の多くに、「ぎあん」(北部に渡航する朱印船やオランダ船の主要着岸地だったゲアン地方)の南に「ぼせん」の地名が書かれており、その南に「かうち(交趾=広南のこと)」がくる。No.74のホセンが布政の漢字を併記するとおり、「ほせん」は現在のクアンビンにあたる布政州を指し、1630年には広南阮氏の2代目阮福源がここを鄭氏から奪って前線指揮拠点「布政営」を置き、さらに北方、現在のハーティン省・ゲアン省を攻めようとしている。布政州を流れ阮氏と鄭氏の勢力の境界になっていた時期が長いザン川(sông Gianh)の河口は、チャンパー時代からラオス方面に抜けるルートの出口のひとつになっていたはずなので、鄭氏と阮氏の抗争の焦点ないし阮氏の拠点というよりも、南シナ海の貿易港としての一つとして、大航海時代の地図に載せる必要があったのかもしれない。

ちなみに今回の展示には、阮朝(1802~1945)の冠とか金冊、皇族の衣服などが出品されており、これも一見の価値がある。以前は「フランスの侵略を招いた反動王朝」などと低く見られがちだったが、最近は阮朝が初めて南北を統一し一元的な支配を試みた点を、現代国家ベトナムの前提として重視する見方が強まっている。
プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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