アメリカでも歴史は暗記科目?

先週の土曜日に学術会議の歴史教育の部会が開かれた。昨夏に提言された「歴史基礎」の内容を検討するための会で、三谷博さんが近現代史中心の案を披露した。調べ学習中心の大胆な案だった。
ちょうど歴教研のブログにも大木先生の意見が出たが、35週(2単位なら年70時間)授業が出来ると考えてはいけない、実質は50~55時間分が精一杯だということは、日ごろ高校の先生から聞いていたので、私も会議の席上で強調しておいた(前回の会議で私が紹介した「市民のための世界史」のカリキュラムは、とりあえず講義の部分が大学の15コマ=1350分=高校の27時間で終わるように作ってある(阪大生だから出来るので、普通の高校生向けならもっと時間がかかるという批判も予想して、それでも課題学習に一定の時間をさけるように作ってある)。

三谷さんの報告では「歴史基礎」の案とは別に、アメリカのハーバード大ほかで史学系の教員にアンケート・聞き取りをされた報告が面白かった。アメリカでも歴史の不人気の理由として「暗記が多い」というイメージがあるのだそうだ。日本で理想化して語られるような、「考えさせ表現させる歴史教育」がどこでも実現しているわけではないのだろう。

何度も言っているが、歴史認識などをめぐって欧米の学生がいろいろ意見を出すのに対して、日本の学生は「なにも知らない、なにも言えない」というのは、歴史教育だけが原因ではない。小学校からの教育課程全体が違うのだ(だから日本の学生は、日本の社会についても文化についても政治についても経済についても技術についても言語についても、人前でしゃべることができない)。

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琉球大と「ミシガン・ミッション」

毎日新聞の29日朝刊「発言」欄の、小川忠氏の寄稿である。
米軍は沖縄軍政下での知識人対策として1950年に琉球大学を設立し、ミシガン州立大に委託して1968年まで顧問団を送り込んでいた。ミシガン州立大に残っていた陸軍省や軍政府向け報告書などの資料を琉球大の山里勝己教授らが発掘して持ち帰り、沖縄県公文書館が公開を進めているのだそうだ。

山里教授や小川氏の研究によると、米軍の琉球大創設の狙いは東西冷戦下で米国的価値を普及し親米感情を醸成することや、軍政を補助する行政官や技術者・教育者を育成することだけでなく、沖縄統治を永続させるために日本と異なる「琉球」文化の独自性を強調し、伝統文化・芸能を奨励して「沖縄は日本ではない」という意識を沖縄に醸成することも狙っていたそうだ。

ところが沖縄の知識人・青年は米軍の圧力に面従腹背や抵抗をしただけではなかった。「琉球」の文化的独自性を奨励した米軍の政策は、意図せざる結果として、戦前日本の「同化政策」が生んだ本土への劣等感を払拭させ、自らの「誇り」を侵す者への抵抗力を身につけさせた。日米両政府が思いもよらぬ最近の独立論には、皮肉にも米国の沖縄占領政策が色濃く投影している可能性がある、というのが小川氏の見方だ。

この見方は、現代史だけの問題ではない。米軍が奨励した沖縄独自の伝統文化は、近世の薩摩藩支配下で、「植民地支配」(江戸期日本国家の「日本型華夷秩序」が、「異国」「異文化」である琉球の存在を要求したことも含めて)のベクトルと、琉球社会の主体性を守ろうとするベクトルの交錯のなかから生まれた。第二次大戦後の米軍政がそれを再構築した。沖縄を日本の一部だと考えるなら、われわれヤマトンテューは、こうした歴史にどう向き合いなにを学ぶかが問われるだろう。

「従軍慰安婦」問題

記者団に取材された際に「強制連行の事実までは認められないと吉見教授も言った」と大阪市長が言ったので、怒った吉見義明中大教授が大阪市に乗り込んで謝罪を求めたとか。

吉見教授のTV発言を引用した別の研究者の記事をもとにした発言だとかなんとか言い訳してるようだが、
日ごろ他人に要求していることからすれば、市長は当然公開の席で吉見教授と議論すべきだろう。

西洋史学の現代的課題

大阪歴科教というところで出している「歴史科学」という雑誌(210号)に、珍しくとても勉強になる面白い記事が載っていた。

ビザンツ史の井上浩一さんの講演にもとづく原稿「西洋史学の現代的課題-ビザンツ史研究と戦争-」である。
「はじめに」のあとの第一節では、日本の西洋史研究の最近の状況を、「筆者未見」から「筆者のみ見」へ、という皮肉の効いた小見出しで紹介する。かつて原史料などあまり手に入らず西洋人の著作の紹介と解釈に明け暮れていた西洋史も、現在では原史料を使わなければ研究ではないという状況に変わってきた、それは当然の方向だが、しかし言語のハンディや時間の制約のために重箱の隅をつつく論文が増え、筆者しか見たことがない史料を使うだけでなくその論文自体が筆者以外のだれにも読んでもらえないものになっているというのが、小見出しの意味である。
第二節では、西洋史研究の意味をめぐる学界の議論を紹介する。竹中亨、川北稔など阪大関係者が重要な役割を果たしている(平たく言うと、爆弾を投げてきた)ことを部分的には知っていたが、まとめて書いてくれたので私には勉強になった。
竹中さんは原史料を使った「発見する歴史学」とかつての西洋史学のような「解釈する歴史学」を区別し、高山博さんは人類が共有する知的財産を増やす「ハード・アカデミズム」とすでに存在する知を人々にわかりやすく伝え伝授する(一般に言う「教育」だけを意味するのではなく、「学界での議論の交通整理、問題提起」なども含む)「ソフト・アカデミズム」に分けた。両者は近似した対概念と理解され、その理解にもとづいて西洋史学会大会などで論争が行われた。竹中さんは日本の西洋史はやはり「発見する歴史学」で世界に互していくのは難しいから、日本国内で「解釈する歴史学」に徹するべきだと--想像するに竹中さんらしい皮肉と「わざと議論を刺激する」目的で--主張し、高山さんや横山良さんは、世界に互して「ハード・アカデミズム」で進むことを主張したのだそうだ。

ハード・アカデミズム論は、スポーツや芸術でもオリンピックや国際コンクールへの挑戦が当たり前になり、国内チャンピオンになっただけでは意味がないとされる今の状況と同じものである。日本の学問や経済の力からすれば、そうなるのが望ましいだろう。だが川北さんは、「いま「西洋史学」として研究されている仕事の大半は、社会的に見て無意味である」と、この私でもすぐには言わないようなきついことを公然と言っているのだそうだ。世界になかなか通用しない、しかも問題設定は先行世代や西洋人に任せて細かい実証のみに専念する(西洋社会の原理から見て、それではいくら精密でも受け入れられないだろう)というありようが事実だとすれば、それが(とりわけ国公立大学でおこなわれることについて)社会的に正当化できないのは明らかだろう。私がいつもしている言い方で言えば、学問そのものの絶対値はプラスにできるが税金投入の費用対効果でみればマイナスの「無駄な公共事業」のごとき研究がとても多いということだ。
南川高志さんも、「西洋史研究は何の役に立つのだろうか」を問い、欧米学界で本格的に活動することだけでなく、新しい歴史観を広く日本社会に発信することを呼びかけたそうである。

そのあとにしかし、井上さんは面白い「第三の道」を提示し、自分はその道を選択したと述べている。ここがすごく印象的だった。手前味噌だが、私と考えがすごく近い。
それは、上の論者たちが「解釈する歴史学」「ソフト・アカデミズム」を「日本国内専用」と前提して議論をしてきたのに対し、「ソフト・アカデミズムの国際化」をはかる道である。グローバル化は「解釈する歴史学」の国際化をも要求しているというのだ。ビザンツという「西欧中心の世界史像」のかげで歪んだ歴史を押しつけられてきた国家の研究だから、そういう役割が果たせるという井上さんの主張は、東南アジア研究者としてもよくわかる。歴史を考える構図や方法を組み替えるというソフト・アカデミズムの仕事抜きでハード・アカデミズムだけを進めても、妥当な歴史像は永遠に築けないからだ。阪大の西洋史の先生がこのごろ韓国や中国によく行っているのも、ソフト・アカデミズムの国際化にかかわる動きと言えるだろう(日本的な西洋史学が意味を失うかわりに、「東アジア的な西洋史学が意味をもつかもしれない)。

第三節ではその実践例として、従来人気がなかった「ビザンツの戦争」の研究をあげている。人気がなかったのは要するに弱かったからだが、その戦争観を探ると、西欧の誇る「自由と民主主義」が戦士共同体のそれであり、戦争や暴力と対になっていたことがはっきりわかるし、世界のビザンツ戦争史研究は今や、ヒロシマ・ナガサキすら視野に入れた研究をしているのだという。西欧史そのものが現在では、近代化は市民の成長が生んだというより戦争そのものが生んだという理解に傾いているのだが、世界システム論や国民国家批判とは違ったところから「ヨーロッパ」や「近代」を問い直すこうした視点も意味があるだろう。

それにしても、上のような自己否定的発言をおこなう教員が多い大阪大学の西洋史学専修には、相も変わらず「進んだ、エレガントなヨーロッパ」にあこがれる学生が、毎年おおぜい入学してくる(あてが外れて失望する学生も少なくないようだ)。教養課程でも専門課程でもいろいろやっているが、これは高校までの教育を根本的に変えないとダメである。

ちなみに井上さんは、ハード・アカデミズムとソフト・アカデミズムは両方必要であるが、個々の研究者はどちらに重点を置くか選択しなければならない、それは学界・社会を見渡して個々人が選択することが必要だ、と述べている。大事な視点だが、そういう選択が保証されるためにも、大多数の青年がアジアやアフリカより日本と西洋に関心ないし親近感を抱いて人文系学部に入るという現状を変えねばならないのである。

もう一点、いつものグチになるが、西洋史学はとにかくこういう議論を学会でしている。
東洋史学はなぜできないのだろう。
東洋そのものが近代西洋によって創られた観念であって実態ではないというのは、この場合の答えにはならないはずなのだが。



「愛国心」と「ナショナリズム」の区別

「歴史評論」11月号が「緊急小特集 現代日本の「ポピュリズム」を問う」を掲載している。
本体はまだ読んでいないのだが、住友陽文「皇国日本のデモクラシー--個人創造の思想史」という本に対する小路田泰直氏の書評が面白い。

見返りを求めずに国家に献身する「愛国心」(近代国家はそれを受け入れる市民=篤志家一人一人の総和によって成り立つものと観念される)と、対価ないし利益を求める「ナショナリズム」(一人一人ではない集合としての国民=大衆が形成する)をあえて区別しているのだそうだ。前者が代議制と「輿論」に立脚するのに対し、日本国家も民本主義もこれを育てようとしたが後者の「世論」の成長の前に不成功におわった、後者が社会それ自体の意志、民族それ自体の意志という方向に進み、戦前の代議制的立憲民主政治は否定された。戦後体制も実は、こうした国民観が下敷きになっているのだという。

「公衆」と「大衆」の違い、「輿論」と「世論」の違いなどは古くからある議論だが、現在のポピュリズムを「民衆は騙されている」とだけ考えるのでは何も解決しない。戦前日本の暴走や現在のポピュリズムを「権力者の思い通りになっている」とだけ理解するのも、全然科学的でない。民衆はそんなに愚かではないし、権力はそんなに万能ではない。この著者の説の当否は別として、こうした「大衆民主主義」の危険性に議論が向かうのも当然のことなのだ。

生活保護問題 怒りの正体を見極めよう

これも毎日の昨日の夕刊の「月刊 ネット時評」
赤木智弘氏が書いている。

自分たちは社会保険料を払って社会保障を得る権利を保っているのに、社会保険料を払わずに生活保護を受給する連中は、本来ちゃんと支払っている人に分配されるべき社会保障をシロアリのように食い尽くし、奪い去るように見える、そのように権利を奪う者に対する怒りこそが、生活保護の不正受給に怒る「マグマ」の正体ではないかと氏は書く。

ただし氏はそのあとに続ける。
一見真っ当に見えるマグマ生成の論理には、大きな勘違いが含まれている。そもそも国民が社会保障を受ける権利は無料であるべきだ。社会保障によって守られるものは私たちの生存権であり、生まれながらに保有する固有の権利である。そういう自分の当然の権利を、さも「カネで買うもの」であるかのように扱ってしまっている、そこが根本的な勘違いだと氏は言うのだ。
たしかに学校ではみんな、20世紀に入って生存権は基本的人権のひとつとして定着した、と習ったはずだ。その「知識」が生きていないのだ。学校教育の責任は見過ごせない。

社会保障をカネで買うという(筆者注:つまりカネを払える人間だけが生存権に値するという)現状を批判し、「社会保険料を支払う人」という属人性をなくすことが、マグマを冷やす第一歩だ。しかしその一歩は、多くの日本人の「俺は社会保険料を払った」という自尊心を奪うことでもある。長引く不況で、ただでさえ自尊心を傷つけらている日本人が、果たしてこれまで過ちを認め、正しい方向に舵を切ることができるのか。今、日本人の理性と覚悟が求められている」という結びは、「世論の暴走」と「安全地帯にいる良識派」の両方を批判してきた氏ならではのものだろう。
プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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