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自治体史の意味

佐藤正幸さんの本でなるほど、と思ったことの一つは、ときの政権が正史を編むという中国的伝統は、明治以降の日本の国家レベルでは発展しなかったが、現在でも自治体史の形で活きているという指摘である。

現代日本の自治体史に、内容的に権力に媚びるようなものは少ないだろうから、上の指摘には怒る執筆者も多いかも知れないが、中国の正史や地方志も、権力者の意図通りに書かれるとはまったく限らない(そういうときのために、中国では「わかる人にしかわからない」表現法が高度に発達している)。自治体が歴史編纂の主体になる発想が西洋にないと言われれば、中国的伝統プラス幕藩制あたりの影響を考えるしかないだろう。

ほかに面白かったのは、ヨーロッパ人が自然(たとえば天体の運行)を観測してそれまで信じられていた法則に合わない場合、法則そのものが不十分だったと考えてより適用範囲の広い法則を見つけようとするのに対し、中国では「天にも異常がある」として法則は変えずに例外事象を記録するという方向をとったという話である(つまり中国の「天」は西方の「唯一神」のように絶対ではない)。

関連して、それぞれの文明がなにを絶対的なるものとするかによって、その文明がなにに知力を集中するかが変わってくる、キリスト教世界でそれが聖書に中心を置く神話と神の教えだったのに対し、中国ではそれが過去の人間の行動の正確な記録=歴史書編纂であったという指摘も参考になる(宗教は絶対的だが唯一神ではないインドはまた別の類型か)。

歴史教育についてもこの本はいろいろ書いており、日本の歴史教科書が規範としての「正史」の性質をもっていることを明確に指摘したうえで、「考えさせるイギリスの教育」が「覚えさせるだけの日本の教育」と比べて万事すぐれているわけでもないことを述べるなど、バランスのとれた記述をしている。
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歴史理論の専門家

日本の大学に歴史理論や史学史の専門家がいないのはおかしいという話はあちこちで書かれているが、
その理由に迫った研究書を初めて読んだ(もっと前に読むべきだったのだが)。
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結論は平凡と言えば平凡なのだが、東アジアの歴史はもともと規範としての歴史であり(東アジアでは規範を与える絶対神は存在しない)、日本の場合そのモデルは中国という外部から来た。明治以後はそれが西洋のモデルに代わったが、以前として自前で歴史理論を考える必要はなかったということだ。ただし西洋モデルの先端を受容できた背景には「正史」を編纂しても原史料を捨ててしまわないような日本の独自性とともに中国式の考証学の高度な展開があったし、欧米にない「東洋史学」のような学問分野ができた背景にも中国的歴史学の遺産があった。

ちなみに史学史の専門家が存在しない日本の大学の仕組みを直接規定しているのは、欧米で必ずある歴史学部が存在しないことだ、という指摘にはなるほどと思った。医学部があれば医学史、理学部には科学史が必要とされた(最近「いらない」という風潮が強まっているようだが)。それならたしかに、歴史学部があれば史学史の講座ないし教員ポストが必須だ。

その他、この本にはわれわれが当たり前だと思っているが実は当たり前ではない、ということがたくさん書いてある。それはあとがきによると、筆者が学部は経済、修士は哲学、博士課程ではじめて西洋史という学歴をもつこと(その間に漢文と中国史学史、日本史学史などももしっかり勉強している)、大学教員としても日本の大学(山梨大学)に所属しながら研究発表はもっぱら欧米でしてきた(本書は海外での既発表論文を日本語に編訳したものである!)という経歴によるようだ。
貨幣史の黒田明伸氏などもある時期以降はそうしているが、海外の大学に所属する日本人はいざ知らず、国内の大学に所属しながらこういう活動をしている人は貴重だろう。若手研究者に読ませたい本だ。

同じ著者の一般向けの山川リブレットも、ヨーロッパの紀年法の変化などとても面白い。
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国有化をめぐる中日間のズレ

中国は尖閣列島の「国有化」の意味を誤解しているのだという記事が新聞に出ている。
国有化したからには軍の配置でもなんでも好き放題できるというのが誤解の第一。
ついでに東京都のやることを政府が止められないという理屈がまったく理解できないので、石原と野田が組んだ陰謀だという話になるのだそうだ。

こういう点で中国が「わかってない」のはその通りだろうが、中国人は普通そういう考え方をするものだということを、日本側はどこまでわかっていたろうか。

これは単に中国が「遅れている」とか「共産主義だから」という問題ではない。政府は理論上なんでもできる。地方は制度上の自治権をもたない。善悪は別として中国の人々は2000年間こういう仕組みでやってきたのだから、これと違う仕組みを理解しろというのは、中国人に中国人でなくなれというようなものかもしれないのだ。少なくともそれは、ある世代までの日本人に「天皇制のない日本を考えろ」と要求するのと同じ程度には難しいことなのだ。

ではそういう中国的な仕組みは、ただひたすら「自由や人権を抑圧するケシカラン体制」か。
中国の書店で日本の書籍を売るなと命じても、売り続ける書店がいくらでもあると聞く。
日本でなにかの拍子に中国書籍の輸入禁止とかを決めて裁判所でもそれが認められたら、その決定は国中で貫徹されるだろう(やっていいことといけないことがわからなくなっている現在の日本の政治状況では、そのぐらいのことをやりかねない政治家がゴロゴロいる)。
つまり「制度としての自由」はなくても「実態としての自由」は中国のほうがある場合があるのだ。
政府の命令や決定自体を否定すると、たしかにひどい弾圧を受ける。ただし法や支配の網は日本よりはるかに粗いから、「網の目をくぐりぬける」ことはできる。
建前と体面が守られていれば、現場での実態については日本よりよほど融通がきく。その意味で中国政府はちっとも強い政府ではない。昔から言われていることであり、第二次大戦後の学界では1980年代に「専制国家論」とて再定式化された理解である。
王朝名を暗記させなくても、歴史教育でこれを教えることはできると思うのだが。

大学教員比率の変遷

なかなか深刻な状況が紹介されている。
http://tmaita77.blogspot.jp/2012/09/blog-post_25.html
人文系は非常勤講師の比率がものすごく上がり、「三途の川」をもう渡ってしまったそうだ。

広島の路面電車

毎日の朝刊社会面に、広島の路面電車についての連載が始まったのを見逃していて、3日目の今日ようやく気づいた。被爆の話、高度成長期に路面電車を守った話、現在の超低床車両の話ときている。

広島にある一部地下区間の新交通システム「アストラム」はちっとも儲かっていないと聞く。
路面電車を捨てた京都、福岡、神戸など、地下鉄の最初の路線はよくてもあとから造った路線は乗客が少なくどうしようもない。欧米や中国では、システムとしての路面電車を高度化して、都市の発展や再生に結びつけている。
毎日の連載が、そういうところまでふれてくれるといいのだが。

聖武天皇の命日1日間違い

明治6年に太陽暦に替えた後、旧暦で記録されていた歴代天皇の命日を新暦に換算した際に、聖武天皇と後嵯峨天皇の2人について換算を間違え、長年1日ずれた日に祭祀をおこなってきたという話が、昨日の夕刊に出ていた。

世界史教科書の指導書に中国の太陰太陽暦を含めて暦の話を書いたところだったので、面白かった。
プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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