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4月30日

現在、日本時間で4月30日午前1時47分。まもなくベトナムでも4月30日になる。
1975年4月30日のサイゴン解放。多くのベトナム人だけでなく、私の人生もその日に変わった。
ただし、あの日の感動を忘れないことと、あのころの考え方のままで生きることは別問題だ。

一昨日の「解放記念のつどい」での古田元夫さんの講演には、ベトナム人民支援世代(反戦運動世代)の聴衆がおおぜい集まった。この世代では「ベトナムは社会主義を捨てて資本主義化しつつあるのではないか」と疑う人が少なくない。これに対して古田さんは、現在のベトナムは党・政府についても農民社会についても、「社会主義でなくなった」とはいえない、と明晰に論じた。その中でも、聞き逃すべきでない指摘は「ソ連崩壊後、生産手段の私有の廃絶と公有・国有化を主要な指標として社会主義を定義する考えは成立しなくなった」という点だと、私は感じた。この36年で、世界が大きく変わったのだ。

このように世界が変わったために、以前の概念や定義そのままでは対象をもはや理解できなくなっている、という話が歴史学にも他の学問にも満ちあふれている。では、「大半の大人たち」も「普通の大学生たち」も相変わらず古い概念や理論のままで物事を理解し(学術用語でいう「コンヴェンショナルな」理解)、それを前提に国の進む道を決めてしまっている日本の現状をどうしたらいいのだろうか。ことは教育全体のしくみにかかわる。ドイモイが必要なのは日本だ。

写真は去年の夏に若い仲間たちを連れて北中部に調査に行った際の、北緯17度線・ベンハイ川の橋のシーンである。最期に通った2000年とはすっかり様子が変わっていた。


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「ベトナムの国は一つ、ベトナム民族は一つ。川が枯れることはあり、山は平らになることがある。だがこの真理はいかなる時も変わらない」。ホー・チ・ミンの名文句の一つが書かれている。
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花よりケーキ(自己紹介・補遺2)


新学期の授業が始まってから寒い日が続いていたが、今朝は家の近くでツツジの開花がぐっと進んだ。大学時代、京都の高野川沿いに下宿して毎日自転車で大学やバイトに通っていたのだが、川端通りのツツジはみごとで、あれからツツジが大好きな花になった。

今夜は家に帰ると、ラ・フォル・ジュルネ・ド・ナントの録画をやっており、ショパンのスケルツオ1番にエチュードの作品10のほう、それにピアノ三重奏曲などをやっていた。高校時代のポリーニのエチュードを聴いたときの衝撃は今でも忘れられない。

今夜のおかずは初めて作ったタイのあらだき。すこし前に間違えてみりんを2本買ってしまったために、このところみりんを使う料理をよく作っていたところへ、タイのあらを安売りしていたのでチャレンジした次第。結果はなんとか食べられるものができた。P1030304.jpg

これは料理自慢などというものではなく、ものぐさ+不器用な私が作れるのはあくまで「一人暮らしで飢えずにすむ自己流簡単料理」に限られる。私の英語と同じレベル、と言えばわかる同僚・知人もいるだろう。今さらきちんと英語を習う余裕などないが、しかし今や国際発信からは逃げられない。今さらきちんと料理を習う暇はないが、しかしこの年で外食や「中(なか)食」ばかりでは健康・経済の両面でよろしくない。普通の家庭料理で作り方を知らない品はいくらでもある。私の味覚も、ちっとも洗練されてなどいないし鋭敏でもない。ただ、「やらねばならない」と思えば日本の受験英語がけっこう役に立つのと同様、ムリヤリ自炊をしようと思えば、家庭科で習った栄養の知識は有用だろう(電子レンジなど便利な道具がある現在、大事なのは技術よりも、基本的な栄養バランスなどの知識であるように思われる)。

それにしても、私はきわめて食い意地が張った人間だという自覚がある。激辛料理などを別にすれば、「あんまり好きでない」食べ物はあっても、「食べられない」ものは基本的にない。ただし、胃腸がそれほど丈夫ではないのに食い意地が張ってやたらに食べたがるものだから、食べ過ぎで下痢や胃痛に苦しんでまわりをあきれさせた経験は数限りない。この年まで好きなものを食べていて、糖尿とかコレステロールとかの問題はほぼ皆無だから親に感謝しなければならないのだが、自分の胃腸の弱さを呪うことはときどきある(たとえば碑文に興奮するわれわれベトナム研究者を「変態」よばわりしたIさんが、ハノイはMホテルのチョコレート・ビュフェで、すぐに満腹する私を尻目にむしゃむしゃ食べつづけているのを見たとき)。

「好きな食べ物」と言われてもたくさんあって答えられない。野菜も果物も肉も魚も、イモもマメもご飯もパンも麺類も、思い出すと食べたくなるものがいくらでもある。中でも甘い物は、和洋中華その他を問わず、特別に好きである(酸っぱいもの、辛いものなどが嫌いなわけではない)。それからバターとクリーム。あんことバターと生クリームは、人類の三大発明ではないかと思う。その意味で、甘い物を毎日たくさん食べるという「文明」を知らずに育ち、私が朝食のパンにホイップクリームを絞ると聞いて顔をゆがめる院生のWさんは、とてもかわいそうな人である・・・Wさん、アルハラならぬ「甘ハラだ」などと怒ってはいけない。これは「文化相対主義」で理解すべきではなく、「発展段階」の問題なのだ。したがって私は、カフェスア(コンデンスミルク入りのベトナムコーヒー)を私よりずっと甘く、ほとんど真っ白にして飲む同僚のUさんを、深く尊敬する。

今朝も私は、イングリッシュマフィンにたっぷりのバターとマンゴージャムを塗り、ホイップクリームをかけて頬張ったのだった。ああ、快感。P1030292.jpg



法学よ、お前もか!

朝、家を出しなにクラシカ・ジャパンでベートーベンのピアノ・コンチェルトの3番を聞いた。バレンボイムの独奏兼指揮。夜、家に帰ると今度は同じ顔ぶれで2番のコンチェルトをやっている。どちらのコンチェルトも、聞くのは久しぶりだ。そのあとはブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲。ダヴィッド・オイストラフとロストロポーヴィチ、指揮はキリル・コンドラシンのモスクワ・フィル。「ソ連」という国家が確かに独自の価値をもって存在したことを思い出させる名演だ。

昼間、CSCD教員が全員参加する「CSCD研究会」で、センター長に就任された法学研究科の三成賢次先生の研究紹介を聞く。歴史学と同様に19世紀のヨーロッパで発達した法学やその日本での展開が、よく似た問題を抱えていることが印象的だった。19世紀の学問と20世紀の学問、ヨーロッパ製の学問とアメリカ製の学問の差異を強調した今年の史学概論やCSCD科目「歴史のデザイン」のイントロは間違っていなかったようだ。

とくに印象的だったのは、かつて「日本に悪影響を与えた国権主義のプロイセン・モデル」と見なされてきたものは、実際の法制がちっとも統一されていないのを「法学で統一しよう」と考えて創造されたものだ、ところが明治日本はそれを(勝手に)実態化した、というくだり。
なんだ、歴史学も法学も、ドイツのそれは実態のないみんな統一(国民国家)を創り出すための学問で(それゆえにこそ世界最新だった)、それを日本が真に受けて、その理念の実現にしゃかりきになったんだ。唐から律令を輸入したときもそうだし、安易な国民性論で説明するのは歴史学にとって自殺行為なのだが、8世紀と19世紀(それに第二次大戦後)の「日本」で、「世界最先端の理念を実態と勘違いしてその導入に夢中になる」という、よく似たプロセスが展開したことは否定しがたい。

次に印象的だったのは、プロイセンやドイツの末端社会が集権的な法律通りに動いていたわけではなく、そこは財産と教養をもつ有力者(名望家層)が動かしていた、その点は明治日本も似ているのだが、日本の場合は本当の有力者が議員などのかたちで表に出ずに「裏に隠れて支配する」かたちを取る傾向が強かった点が違う--表に出てくる政治家はだから質が悪いのばかりになる--のだ、という話である。
日本史研究者はだれも知らないかもしれないが、これは日本の権力だけの特質ではなく、ベトナム北部の村落共同体についても、同じことが指摘されている。もしかしたら、その重要な前提は中華型の国家・社会にあるのかもしれない。中華型の国家というのは、ヨーロッパと違い「社会に干渉する万能の権利を留保する国家」である。うっかり表に出て素手で国家と直接向き合ったりすると、ひどい目にあう。それに対応する社会の側も、中国の場合であれば「もっともホッブズ的な万人の万人に対する闘争状態を許す社会」である。村落共同体などの中間団体を強化する、権力を多重化して責任の所在をあいまいにする、など日越共通のパターンは、この「大野獣」的(ホッブズの国家観に関するクリフォード・ギアツの表現)な国家・社会モデルを「飼い慣らす」努力の産物ではなかったか。

印象に残った話をもう一つ。三成先生が委員をしている大阪府のある委員会は、学者が数名含まれることになっているが、それは府下の4つの有名大学だけから委員が選ばれることになっているのだそうだ。「とりあえずメジャーな有名どころを選んでおけば無難→その他にいくら優秀・必要な人や組織があっても無視」という、日本中を覆うこの考え方を変えるには、どうしたらいいのだろうか(これを変えねば、パリーグも人文系のアジア研究も永遠に浮上できないことは、あちこちで書いたり話したりしてきた)、。
毎日新聞夕刊で内田樹氏が、今回の震災による原発トラブルへ東電の対応に「リスクを最小化する発想に欠けている」ことを指摘している。日本の組織は平時にうまく行くマニュアル作りは得意だが、非常時にマニュアルを超えて判断したり臨機応変に処置することは不得意だというのだが、歴史的に見ても、平安時代中期以降の律令制の換骨奪胎、江戸時代の鎖国と幕藩体制など、日本では何度も「マニュアル通りに動けばよい超安定システム」を作ってきた。そういうシステムを作る能力は世界的に見てもすごいものだと思うが、それがリスクに対処する能力を奪うし、「メジャーでないもの」を見えなくしている点は、どうにかしなければいけない。

もっともそういう日本史の特質は、有史以前からのDNAに由来するものでもなければ、日本列島内部で勝手にできたわけでもなかろう。上でも書いたように、「グローバル化」が進んだ唐代や大航海時代の東アジアの、よく言えば活力に満ちた、悪く言えば荒々しすぎて危険きわまる国際環境と中国モデルの重圧(9~10世紀や17~18世紀にはその負の側面も顕在化している)に対処する、必死の模索の結果であるという側面を、歴史学なら見ることHができる。他方、中世日本というのは、やはりリスクに満ちあふれた状況下で、マニュアル通りでもワンパターンでもないさまざまな実験を延々とつづけた時代ではなかったか。日本列島の住民が歩む道は、決して遺伝や自然環境で決められた同じパターンの繰り返しではなく、時代ごとにいろいろな模索と選択をしてきたのだから、今後も違った道に進める可能性はある。その点で私は、絶望してはいない。





ベトナム史の研究書

この春、西村昌也氏の著書『ベトナムの考古・古代学』(同成社)が出た。
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「考古・古代学」と言っても李陳時代はおろか黎朝期についても豊富な内容を含む。西村氏のハノイ留学の推薦状を書いてからほとんど20年になるが、あれからベトナムに住みつき(途中からは夫婦で)、くまなく遺跡を歩き回ったその努力・執念に敬服する。

努力・執念と言えば、八尾隆生氏の『黎初ヴェトナムの政治と社会』(広島大学出版会、2009年)も劣らない。タインホアの田舎で、まっ昼間の陽光のもとで野ざらしの碑文を黙々と筆者しつづける八尾氏の姿が忘れられない。
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私の本も2月末に出ている。P1020960.jpg
ベトナム史研究の深さでこの二人にはとうていかなわないが、「実にたくさんのことを書いた変わった本」ではあると思う。いずれにしてもこの3冊は、それぞれの著者の性格がよく出た、三者三様の書物だと感じる。

ベトナム前近代史の研究書が丸2年にならない期間で3冊出たのは、87年に桜井由躬雄『ベトナム村落の形成』と片倉穣『ベトナム前近代法の基礎的研究』が出て以来の、ちょっとした快挙ではないか。3冊まとまれば、東南アジア史研究の深刻な低迷を打破することにも、けっこう貢献できそうな気がする。こういうことを可能にしてくれたベトナムのドイモイ(その下でのベトナム人研究者の熱心な指導・協力)と日本の恩師・仲間たちに、深く感謝しなければならない。

西鉄のこと(その4)

スポニチでプロ野球選手の回顧談を連載しており。平松政次や有藤道世に続いて現在は豊田泰光。
今日から国鉄スワローズ移籍後の話に移っている(ちょうど私がプロ野球を見始めた年で、豊田というのはずっと国鉄の選手だったかと思っていた。あの年の日本シリーズでライオンズに豊田がいたら...)。

西鉄電車の写真紹介のつづきで、まずは86年9月、ベトナム留学の直前に北九州の鉄道乗りつぶしに出かけた際、小倉で途中下車したときのもの。
北九州市内線は門司方が廃止され、砂津が終点になっていた。
img082門司方が廃止され終点になってしまった砂津(86年9月) img083.jpg img084.jpg


つぎは97年7月、大雨の中を熊本に出張した際に大牟田駅で撮った写真。
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帰りに直方へ出て筑豊電鉄に乗る。このあと回った折尾とどちらも、高架の終点が都市間電車の夢を伝えていた。
img087筑豊直方97年7月

黒崎に出る。「そごう」がまだあった時代。
img089黒崎が終点になっている img090.jpg

熊西分岐点付近
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折尾終点
img094折尾終点




被災者の食物アレルギー

震災にあって避難所で暮らす被災者のなかに、食物アレルギーがあり支給される食べ物が食べられなくて困っている人がいるという新聞記事を読んだ。私自身は幸い食物アレルギーはなかったが皮膚や鼻ではアレルギーの経験がたっぷりあり、家族や友人・学生にはアトピーは珍しくないし、牛肉、エビ・カニ、キク科の野菜など食物アレルギーをもつ同僚・知人も何人かいる。そのため、この記事は他人事だと思えなかった。

被災者を支援する小規模自治体などの側にすれば、そこまで細かく配慮した食糧備蓄や食べ物の支給などできない、ということになるのだろうが、外国人被災者に対するいろんな外国語による支援などと同じで、こうしたマイナーな要求にもより広域的に対処できる仕組みができることを、切に願う。

そして、アレルギーで食べられない人を「ぜいたく言って」などと白眼視することだけはやめてほしい。
かつて日本に来たベトナム難民に含まれていたイスラーム教徒の少数民族に対して、受け入れ施設の給食担当者が「郷に入っては郷に従えだ」として、無理に豚肉の料理を食べさせようとしたことがあるそうだ。どちらも、「そういう問題ではない」。

自分が「理解できない」「おかしい」と思うことでも、「もしかしたらそちらが正しい(それも成り立つ)のではないか」とまずは考えてみる、そういう想像力と論理的思考力をみんなに身につけてほしい。でないと、民主主義社会は成り立たないはずだ。


プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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