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『ことばの教育を問い直す』

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たまたま見つけた本だが、母語と第2言語・外国語の関係(教育における母語教育と第2限後・外国語の教育の関係を含む)だけでなく、一般的な理論と実践の往復、教育の目的と方法などの議論も、きわめて啓発的である。

「まず知識を教えないと考えさせることはできない」「理論は生徒に難しすぎるから具体的事例を教えよう」などと言いつのる現場の歴史の先生(多数の大学教員を含む)を説得するのに、私が万言を費やすよりこの本を読ませる方がいいような気がしてきた。

で、史学系にもよくいる、問われたことに答えられない学生たち。「Aはなぜ起こったか」と聞かれて「Aがどのように起こったかのプロセス」をとうとうと述べる学生。「CはDか否か」と聞かれて「今はEのことを考えるべき時代だ(Dは議論にならない?)」と答えてオシマイの学生、「Gはどんなものか説明せよ」と求められて「Gの属性の一部であるF(しかしGだけの属性ではない)について説明を始める学生」... そして、それらの議論の例として挙げるべき、高校歴史の定番の事件や用語を聞かれて思い出せない学生。
やっぱり対話型の授業より一方的講義の方が楽なのは間違いない。

ここで「学生の(間違っていても)自由な発想を大切にし、そこから学習を導こう」という気になかなかなれないのは、未熟な私の自己責任だろうか。この国の教育に欠陥があるということは、本当に考えなくていいのだろうか。

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ことばの教育を問いなおす--国語・英語の現在と未来

キャンパス内で散髪のあと、隣接する生協書籍部で購入。ちくま新書で鳥飼久美子、苅谷夏子、苅谷剛彦共著(対談ならぬ「対書」つまり相手の文章を読んでそれに対する文章を書くということを繰り返して出来た本だと、前書きにある)。

帰宅する電車の中で読み始め、まだ最初の1章(苅谷夏子氏)も読み終えていないのだが、国語教育の目標(母語なら自然に身につく日常語を超えた読解や表現の能力)は「普段着」とは別の「よそいき」「正装」ではなく「どこへ出ても恥ずかしくない普段着」を持つことだという説明、「伝説の(中学)国語教師」大村はまの教室で学んだことを、卒業生が「コンピューターに例えればOSだ」と表現したことを引きながら、苅谷氏が実際にはどの科目でも、「学ぶということは、OSの部分と個々の知識・スキルとの間を行き来しながら、両方を育て、更新していった時にもっとも意味を持ち、成果を上げ、根を下ろすのかもしれません」と述べるあたりを読んで、学生にこれを10回書き写させたくなった(笑)。自分を含む日本人が「なぜ英語(外国語)が話せるようにならないか」について、私はいつも「みんなの頭にインストールされるOSに「外国語アプリケーション」を起動させるファイルがついてないからだ」というたとえ話をしてきたのだが、これが素人考えの不適切なたとえではないことがわかった次第である。明日以降の通勤電車で、続きを読むのが楽しみだ。中高生の頃ならそのまま布団の中で読み続けたのだが、今はそんなことをすると翌日の活動に差し支えるので(明日は阪大歴教研)、我慢して明日にとっておこう。

とにかくこういう議論の方が、抽象的な「批判的思考力」のために文学教育を守ろうという種類の議論よりずっと生産的だろう。
そうそう、鳥飼さんの「はじめに」によると、英語教育の「4技能」というのはEUではもう古いのだそうだ。

社会運動は「わがまま」「自己満足」?

今朝の毎日新聞「論点 若者と街頭の政治」は香港、韓国や台湾と違って、なぜ日本では若者の政治・社会運動が活発化しないのかについて三者の意見を載せる。

五野井郁夫氏の1980年代以来の歴史分析は基本として押さえるべきだろう。運動を潰す側の圧力と、運動の担い手側の不作為(旧態依然で自己満足的な--最初はそうではなかったのだが--運動形態の刷新を怠ったこと)、さらに文化的な変容の相乗効果が、現在の若者に「ゼロどころかマイナスからしか社会運動を始められない」状況をもたらしたのだということ。文化面ではポストモダンの文学や思想が、欧米では反政治的な潮流とはとらえられなかったが、日本では政治や社会問題に関わらない理由付けや、単なる消費社会肯定論として広まった」ことを指す(歴史学における「社会史」や「言語論的展開」も同じだろう--かつてのマルクス主義ですら、日本では運動より学問ないし知的遊戯として広まった側面が強いとされる)。

富永京子氏は、今の若者が社会や政治にモノ申すことを「わがまま」「自己満足」などとネガティブにとらえる傾向が強いとする。背景にあるのは「偏っている」と見られることを極度に恐れる心理だというから、社会批判の言説に対して、「社会が(政権が、企業が)悪いと認めててしまったら、そこに必死で適応しようとしている自分の努力を否定することになる」という、私などには珍論としかいえない論理と同根なのだろう。「失敗を異常に恐れ、失敗するぐらいなら行動しないことを選ぶ」日本の国民性があるにしても、これで近代民主主義が守れたら奇跡に思える。

これがある種の福祉を強力に保証する社会・政権(最近の江戸時代像は、世界トップレベルの重税の一方で農民その他の再生産を保証する仕組みも中世日本や同時代の他国と比べればずっとよく整えられた「福祉国家」状態だったという理解が主流のようだ)のもとであれば「お上に逆らうのはもってのほか」「これでうまく行かなければ自己責任」などの考えが一般化しても無理はないが(與那覇潤氏の江戸時代像もこれに近いだろう)、現代日本の社会や政権はそういう保証をしてるかね。

富永氏は今の若者が政治や社会に無関心なのではないが、「キャンパスで運動を見たことがない」、「シラケ世代」の親たちも冷笑的で、「関心を持ちたいが持ち方を誰も教えてくれない」という問題にも言及している。富永氏は学校の授業になると「勉強した人にしかできない」と考える若者が増えることも懸念している。歴史総合などの教育改革が「一部エリートにしかついていけない」という懸念と同じことで、「普通に出来る(コロンブスの卵の)社会運動」のやり方」を広げることが変化の鍵になるだろう。


「論理国語は必要か」

昨日の毎日朝刊ではもう一つ、「論プラス 「論理国語」は必要か 文学軽視への懸念も 背景に読解力低下」(濱田元子編集委員)にもふれるべきだろう。入試改革関連でたびたび取り上げられている、「文学を減らして企業や自治体の広報の文章、法令文や会議、裁判の記録などを読み解かせる」ことの是非に関わる記事である。

結論部で「批判的思考力を深めるという理念は大切だ。外国人との共生が進み多様化する社会の中で、世代やジェンダー、母語といった違いを超えて、会話の言葉やその行間を通して相手を理解し、自分の思いも伝えていかなければならない。「読解力」は社会生活の根底をなすものだ」と述べるのは、PISA調査の結果発表の後だとはいえ、「まず読解力、表現力はそのあと」と言っているように見える部分がものすごく問題だと思うが(歴史における「まず知識、考え方はそのあと」というのと同様だとすれば、非科学的だし社会的にも問題が大きい)、そのことに目をつぶれば前半は正当だろう。問題は「文学軽視」を批判する側が主張するほどに文学は不可欠で、しかも従来の比率が示すような文学優位で上のような社会生活に必要な読解力や表現力が本当に保証できるのかという点だろう。その点で文学擁護派は、古典教育シンポでの古典擁護派と同様に、なにが問題になりなにが要求されているのかを正確に理解していないように思われる点が、同じ人文学を業とする者として心配だ。また古典教育シンポのディスカッションでも突っ込まれたように、文学必要論が古きよき文系インテリの視点で語られていることも看過できない。

この記事でPISA調査のデータを引き、「本を読む頻度が高い生徒、なかでもフィクションやノンフィクション、新聞をよく読む生徒の方が読解力の得点が高かった」とするのはいいとして、「文章が論理的であるか、文学的であるかを問わず、活字や多くの言葉に触れる習慣が、批判的思考を育んでいるということではあるまいか」は全然議論がずれている。どうして勝手に読解力を「批判的思考」(「クリティカルシンキング」の連想か)に目標をすり替えるのだろうか。途中にもPISA調査について「「事実」と「意見」を的確に区別し、情報の正確性や論拠を明確にしようというものだった」「単なる「読み取り」だけでなく、自分の考えを根拠を示して説明する、批判的思考が求められたが、正解率は低かった」とあるのも、とりあえず高校時代に現代国語は全国模試100位以内でとりわけ論説文は大得意だった私には、文学擁護派の意見と同様、「批判的思考力」の使い方がおかしいように思われてならない。


センター入試は元通りでいいか?

(いつもの繰り返し)センター入試を「基礎知識の確認」に戻し、「思考力・判断力・表現力」は大学独自に問えと言ってる人々に問う。
(1)独自のペーパー入試でそういう試験をしようとすると文句を言ったり邪魔をするのは皆さんじゃないですか? あるいはそんなことをする余裕がとてもできないような先進国一貧困な教育予算について、皆さんはなにかしてくれましたか?
(2)18才選挙権は「思考力・判断力」抜きで唯一の正解を覚えるような「基礎知識」だけで正当に行使出来るとお思いですか? そこで唯一の正解だけを覚える/答えるような試験は、一党独裁を肯定するものじゃないでしょうか?

大阪大学歴史教育研究会 第120回例会のお知らせ

さて、準備が大変だ。センターのプレテストの面白い問題の紹介以外に、3月末の愛知世界史研究会での討議も引きついで、思考力を問う問題や論述問題で「なぜ」「どのように」だけでなく「いつ」「だれが」「どこで」「なにを」などを問う可能性についても話さなければならない。

【大阪大学歴史教育研究会 第120回例会】
 日時:2019年4月20日(土)13:30~17:30
 会場:大阪大学豊中キャンパス文学研究科本館2階大会議室

【1】堤一昭(大阪大学大学院文学研究科教授)
「大阪大学歴史教育研究会2019年度活動方針」

【2】桃木至朗(大阪大学大学院文学研究科教授)
「入試改革を考える」

(要旨)高大連携歴史教育研究会やその他の学会、各地の教科研究会などで、「大学入学共通テスト」のプレテスト問題などを中心に、入試改革の検討が進められている。本報告では、出題する大学側の視点に注意しながら、プレテスト以外に国公立二次・私大入試も視野に入れて、思考力・判断力や表現力を問う入試問題の出題方法について検討する。「多人数を一度に採点する問題でもそれなりに問える思考力や判断力」にどんなパターンがあるかを中心に、それと記述・論述問題などを組み合わせる方法(問いの連鎖にもとづく日常の学習を反映するような出題)の可能性についても論じたい。
プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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