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オンライン講義

毎日新聞がかなり大学の状況を書いている。
教員側の心配として「人気教員の講義の録画だけあれば、他の教員はいらんということになってリストラされるんじゃないか」という声も載せていた。これは憂慮すべき事態である一方で、従来のようにどの大学もまずは「メジャーな」分野の教員を揃えて、余分もポストがあってはじめて「マイナー分野」の教員を雇うというやり方が無用になるという意味ももつかもしれないな、と感じてしまった。

実験・実習ができなくなった科目、論文執筆に必須な図書館での資料探しやフォールドワークができなくなった大学院生などがえらいことであるという話も書かれていた。まことにその通りである。

ほかにも細かい問題はいろいろ聞く。たとえば人文系の演習・ゼミ。発表・討論型のはなんとかできそうだ。きついのは、(1)発音指導などが大事な語学の授業をネット環境がまちまちな中でやるのはしんどいそうだ(スカイプなどの一対一指導と違う)。(2)資料購読型のゼミもきつそうだ。研究室でいろんな資料や書籍をいっぱい広げて、1回に3行しか進まないとかいう伝統的なタイプである。

さて、私のゼミはこの週明けから開始だがどうなることか。また今年博士論文。修士論文執筆の院生たちは大丈夫か。
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ゼロリスク志向がリスクに

今日も毎日新聞朝刊(大阪本社版)から。昨日の坂村健氏のコラムと同じ方向性の記事。
11面「論点 新型肺炎とどう向き合う」の武田徹氏「新型コロナウイルスの感染をめぐる社会の動きに、「ゼロリスクを目指すことは、むしろリスクを増大させる」と感じている」。

入試の世界史もそれをやっていませんかね。

「ゼロリスクを求める「潔癖」な心性は、悪質なナショナリズムと相性がよい」
「世間も、ゼロリスクにとらわれすぎていないか。多くの人が「入手困難になるかも」と日常に必要な以上のマスクや消毒用アルコールを買い占める。「なんと利己的な人々か」と、ため息が出る。

このへんも、「公平性」(とみんなが思い込んでいるもの)にこだわりぬく教員、受験生や親たち、みんなでよってたかってやっていることが日本社会に生み出している結果と、よく似ていませんかね。

「程度の問題」を考える能力

昨日の毎日朝刊の記事。13面(科学欄)の「坂村健の目」はコロナウイルスについての「正しく恐れるということ」。研究が進んでいないコロナウイルスについて「何が正しい」かはまだはっきりしないが、そういう時に常に頭に置くべきは「「程度の問題」という言葉だ」とする。
 つまり「「正しさ」は「0か1か」ではなく「程度の問題」。「少しでも効果があるなら、した方がいい」が感染症専門家にとっての「正しさ」でも「本当に必要な人のために、少しの効果ならやめたほうがいい」という公衆衛生の専門家は「正しさ」を天秤にかけている。基本は、医療資源を浪費せず、高齢者はガードすること。
「どう判断しても、将来的には間違いとなるかもしれない。しかし、唯一言えることは、このような複雑な問題に対し極端だからこそ単純で魅力的な--「0か1か」の解答を求めることは間違っているということなのだ」。

 理数系の学問は全部公式や法則に従って唯一の正解が出ると信じ込んでいる学生にあきれかえったと以前書いたことがあるが、ここで問題になるのは「確率」「費用対効果」などの概念だろう。それらにまったく無理解なままで「教養」だの「批判精神」だの言い立てる人文学者や、あれこれの理由を並べて「唯一の正解だけを求める」つまり「0か1か」の世界に生徒を駆り立てて平気な地歴科教員に、「上の(坂村氏の)文章を100回書き写せ」という課題をやらせたい。

『ことばの教育を問い直す』

イメージ (241s)
たまたま見つけた本だが、母語と第2言語・外国語の関係(教育における母語教育と第2限後・外国語の教育の関係を含む)だけでなく、一般的な理論と実践の往復、教育の目的と方法などの議論も、きわめて啓発的である。

「まず知識を教えないと考えさせることはできない」「理論は生徒に難しすぎるから具体的事例を教えよう」などと言いつのる現場の歴史の先生(多数の大学教員を含む)を説得するのに、私が万言を費やすよりこの本を読ませる方がいいような気がしてきた。

で、史学系にもよくいる、問われたことに答えられない学生たち。「Aはなぜ起こったか」と聞かれて「Aがどのように起こったかのプロセス」をとうとうと述べる学生。「CはDか否か」と聞かれて「今はEのことを考えるべき時代だ(Dは議論にならない?)」と答えてオシマイの学生、「Gはどんなものか説明せよ」と求められて「Gの属性の一部であるF(しかしGだけの属性ではない)について説明を始める学生」... そして、それらの議論の例として挙げるべき、高校歴史の定番の事件や用語を聞かれて思い出せない学生。
やっぱり対話型の授業より一方的講義の方が楽なのは間違いない。

ここで「学生の(間違っていても)自由な発想を大切にし、そこから学習を導こう」という気になかなかなれないのは、未熟な私の自己責任だろうか。この国の教育に欠陥があるということは、本当に考えなくていいのだろうか。

ことばの教育を問いなおす--国語・英語の現在と未来

キャンパス内で散髪のあと、隣接する生協書籍部で購入。ちくま新書で鳥飼久美子、苅谷夏子、苅谷剛彦共著(対談ならぬ「対書」つまり相手の文章を読んでそれに対する文章を書くということを繰り返して出来た本だと、前書きにある)。

帰宅する電車の中で読み始め、まだ最初の1章(苅谷夏子氏)も読み終えていないのだが、国語教育の目標(母語なら自然に身につく日常語を超えた読解や表現の能力)は「普段着」とは別の「よそいき」「正装」ではなく「どこへ出ても恥ずかしくない普段着」を持つことだという説明、「伝説の(中学)国語教師」大村はまの教室で学んだことを、卒業生が「コンピューターに例えればOSだ」と表現したことを引きながら、苅谷氏が実際にはどの科目でも、「学ぶということは、OSの部分と個々の知識・スキルとの間を行き来しながら、両方を育て、更新していった時にもっとも意味を持ち、成果を上げ、根を下ろすのかもしれません」と述べるあたりを読んで、学生にこれを10回書き写させたくなった(笑)。自分を含む日本人が「なぜ英語(外国語)が話せるようにならないか」について、私はいつも「みんなの頭にインストールされるOSに「外国語アプリケーション」を起動させるファイルがついてないからだ」というたとえ話をしてきたのだが、これが素人考えの不適切なたとえではないことがわかった次第である。明日以降の通勤電車で、続きを読むのが楽しみだ。中高生の頃ならそのまま布団の中で読み続けたのだが、今はそんなことをすると翌日の活動に差し支えるので(明日は阪大歴教研)、我慢して明日にとっておこう。

とにかくこういう議論の方が、抽象的な「批判的思考力」のために文学教育を守ろうという種類の議論よりずっと生産的だろう。
そうそう、鳥飼さんの「はじめに」によると、英語教育の「4技能」というのはEUではもう古いのだそうだ。

社会運動は「わがまま」「自己満足」?

今朝の毎日新聞「論点 若者と街頭の政治」は香港、韓国や台湾と違って、なぜ日本では若者の政治・社会運動が活発化しないのかについて三者の意見を載せる。

五野井郁夫氏の1980年代以来の歴史分析は基本として押さえるべきだろう。運動を潰す側の圧力と、運動の担い手側の不作為(旧態依然で自己満足的な--最初はそうではなかったのだが--運動形態の刷新を怠ったこと)、さらに文化的な変容の相乗効果が、現在の若者に「ゼロどころかマイナスからしか社会運動を始められない」状況をもたらしたのだということ。文化面ではポストモダンの文学や思想が、欧米では反政治的な潮流とはとらえられなかったが、日本では政治や社会問題に関わらない理由付けや、単なる消費社会肯定論として広まった」ことを指す(歴史学における「社会史」や「言語論的展開」も同じだろう--かつてのマルクス主義ですら、日本では運動より学問ないし知的遊戯として広まった側面が強いとされる)。

富永京子氏は、今の若者が社会や政治にモノ申すことを「わがまま」「自己満足」などとネガティブにとらえる傾向が強いとする。背景にあるのは「偏っている」と見られることを極度に恐れる心理だというから、社会批判の言説に対して、「社会が(政権が、企業が)悪いと認めててしまったら、そこに必死で適応しようとしている自分の努力を否定することになる」という、私などには珍論としかいえない論理と同根なのだろう。「失敗を異常に恐れ、失敗するぐらいなら行動しないことを選ぶ」日本の国民性があるにしても、これで近代民主主義が守れたら奇跡に思える。

これがある種の福祉を強力に保証する社会・政権(最近の江戸時代像は、世界トップレベルの重税の一方で農民その他の再生産を保証する仕組みも中世日本や同時代の他国と比べればずっとよく整えられた「福祉国家」状態だったという理解が主流のようだ)のもとであれば「お上に逆らうのはもってのほか」「これでうまく行かなければ自己責任」などの考えが一般化しても無理はないが(與那覇潤氏の江戸時代像もこれに近いだろう)、現代日本の社会や政権はそういう保証をしてるかね。

富永氏は今の若者が政治や社会に無関心なのではないが、「キャンパスで運動を見たことがない」、「シラケ世代」の親たちも冷笑的で、「関心を持ちたいが持ち方を誰も教えてくれない」という問題にも言及している。富永氏は学校の授業になると「勉強した人にしかできない」と考える若者が増えることも懸念している。歴史総合などの教育改革が「一部エリートにしかついていけない」という懸念と同じことで、「普通に出来る(コロンブスの卵の)社会運動」のやり方」を広げることが変化の鍵になるだろう。


プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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