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日本人の読解力

先日発表された国際学力調査で、日本の生徒は「共同で問題を解決する」が1位など、好成績だったそうだ。
先進国中最低の教育投資(対GDP比)でこの成績を上げるのだから、大したものだともいえる。
ただし見過ごせないのは、その中で最低だったのが「読解力」だったこと。

今回の「龍馬が教科書から削られる」問題でも、「教科書本文に載せない」が「教科書から削られる」に脳内変換されるという読解力の低さがまともにあらわれた。こう言ってもコジツケだとは思わない。日本の教育は「反射的に体が動く」ように仕込むのは得意だが、自分の仲間ではない相手の言うことを正確に理解する能力を養う点では、著しく劣っている。

いつも言っていることだが、国際化というのは少数の英語の得意なエリートが外国に出かけてやるものだった時代はそれでもよかったろう。だが「いろんな外国人が国内に群がっている」時代にそれではダメだろうが。
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文化勲章・文化功労者

よく存じ上げている先生が文化勲章に2人(斯波義信先生、藤島昭先生)、文化功労者に1人(東野治之先生)同時に選ばれたというのは、初めての経験だろう。歴史学者のお二人はどちらも阪大に縁がある点でもめでたい。
ちなみに光触媒で有名な藤島先生は、学生時代に横浜国大で私の父の指導を受けており、私が小中学生の頃に家に遊びに来られたこともある。そんな年齢のガキがなんにも知らず話をしていたのは、今となってはおそれ多いことである。

政治教育・主権者教育としてのアクティブラーニングの必要性

選挙で選ばれた政府が手続きにのっとって審議を進め時間が来たから採決する、それの何が悪い、と思っている政権支持者が多いということは、文科省が新学習指導要領で進めようとしている「主体的・対話的で深い学び」ができていなかったということである。

第一に安全保障や組織犯罪防止を自分に関わる問題だと思っていない。第二に話し合いのルールがわかっていない。第三に民主主義は多数決であるなどという表面的理解しかしていない。主体的にも対話的にも深くも学んでいないとこういうことになるのだ。

あなたが捜査対象になるんだよ。仲間を売らなければあなた自身が処罰されるという社会になるかもしれないんだよ。そう考えて国会は審議し、有権者は意見をいうべきだったのだ。「中国をどうするんだ」などと「100満遍念仏を唱えれば極楽に行ける」式の寝言を言ってる場合じゃない。

覚えることと考えることの関係

中学時代に国語の教科書で習って以来私が好んでいる論語の言葉に、「学びて思わざればすなわちくらく、思いて学ばざればすなわちあやうし」というのがある。覚えただけで考えなければわかっていることにならない、考えるだけで覚えなければそれはアブナイ」といった意味だろう。

この場合、「学ぶ」と「思う」は車の両輪であって、どちらが先とかどちらが基本でどちらが応用という関係にはないだろう。

ところが日本の教育は、「型を覚え込む」ことを優先的に先にすべき基本として扱い、「その型の背後にある心(考え方)」を身につけるのを「後回し」にすることが多い。芸事や武道でもスポーツや学校教育でも、たいていそうだ。そうするとたいていの場合、「心」を理解する訓練が受けられるのは、「型」を完璧に身につけた少数の優秀者だけ、ということになる。

それでいいのだろうか。

「はねるはねない、出る出ない」を完璧に覚えた者しか、漢字といううふしぎふしぎな(とても面白い)文字の特質を考える機会をあたえられない。
中国の王朝名を全部暗記した者しか、中国史の世にもケッタイな(困った点も多いがしかしこれも知的興奮をそそる)特徴を考える機会を与えられない。
記号・語句の記入やマークシートの試験が完璧にできる者にしか論述式の訓練をしない。

それでいいのだろうか。

プロの養成ならそれでもいいかもしれないが、全員が学者になどならない初等・中等教育がそれでいいのだろうか。

少数のエリート以外は右肩上がりなど決まった世の中の仕組みに従って働いていればいい時代ならそれでもいいかもしれないが、21世紀にそれでいいのだろうか。

少数の支配者の命令にみんなが従う社会ならそれでもいいかもしれないが、民主主義社会にそれでいいのだろうか。

外国人との接触など限られた人間にしか機会がなかった時代ならそれでもよかったかもしれないが、国内の、それも地方社会が外国人労働者や観光客なしには成り立たない時代に、それでいいのだろうか。

プロの養成でも、ベンチのサインで大部分のプレーをコントロールできる野球ならまだありかもしれないが、それが不可能なサッカーやラグビーの選手の養成に、そういうことをやっていていいのだろうか。

ここまで書いても、まだ反論はあるだろう。
「そんなことを言っても子供は強制しなければ勉強などしない」
そうかもしれない。だがそれなら、「覚えること」だけでなく「考えること」も強制しようではないか。

野球で一流でない外国人打者を「ボールになる変化球で三振させる」ことはは並みの投手もできるが、サッカーの日本代表はトップクラスの選手でも国際試合になると(セットプレーは別として)永遠に「決定力不足」に泣かされ続ける、それは「型」を先にする日本的教育の光と影を明瞭に示すものではないのだろうか。




説明力の不足

全国学力テスト(これ自体はやめた方がいい。学校別成績公表なんて自殺行為)の結果について強調される「説明力の不足」。

これを自分たちも改善に全力をあげなければならない(ある意味で絶望的な)問題だととらえない高校教員や大学教員がいたら、それは幸せな人たちだ。
たくさんあるほかの課題を理由に「説明できるのは少数の秀才だけ」という状態を放置できるほど、21世紀の日本社会には余裕がない。

新しい漢字文化の必要性

漢字でもう1件、これも年中言っていることだが、東アジア諸国の対立(相互無理解)の背景に、どの国も漢字文化が衰退したことがあります。昔の漢字文化にはたしかに福沢諭吉が批判したような欠点があるのですが、それを乗り越えた新しい漢字文化(それはたとえば、中国中心主義とは違う多様な漢字文化という観点が必須)を創造しないと、英語だけで東アジアの相互理解なんて絶対に、絶対にできません。

ちなみに漢字は専門家の間では「表意文字」でなく「表語文字」という言い方を使うことがあります(英語ではロゴグラフィーという言葉があるそうです)。つまり漢字には擬声語・擬態語を文字にしたものがたくさんあり(諸橋大漢和辞典などみればたくさん出てきます)、意味を表した文字とは限らないけれども、すべてが一種のロゴであり、必ず1字が1つの意味をもち、アルファベットや仮名のように単独では意味を持たない文字というのは(原則として)存在しないということです。

もう1点、科挙がある国では、漢詩を含め韻文が作れないとインテリとは認められません。漢字は表意文字だから筆談ができるなんて言ってるのは、日本に科挙がなかった(平安時代に放棄してしまった)からです。朝鮮やベトナムから中国に朝貢に行った使者は、自分の国が蛮族の国ではないと証明するために、一生懸命漢詩を作ります。しかも、漢詩の押韻というのは、日本の漢文の授業で習うような行末だけ揃えるというものではなく、全部の文字の「平仄」を合わせねばなりません。だからベトナムでは、漢字の字体はずいぶんルーズですが韻は必至に覚えます(ほとんど漢字を表音文字だと思ってるんじゃないかと感じることがあります)。
プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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