あまのじゃくの独り言
私が嫌いなものというか、受け付けない考え方。
多くの要素からなる何か大きなものの全体を論じる際に、他にどんな要素があるかも全体がどんな構造であるかもを見ようとせずに(つまりどうやれば本当に全体が論じられるかを考えずに)、とにかくその内部でいちばん人気がある(有名な)一つか二つの要素だけで全体を語り、その他は無視して当然という考え方。たとえば「日本料理といえばスシ、テンプラ」「ベトナム料理といえば生春巻き」とかいうのもそのクチである。
こういうのを見たとき、私は考えるまでもなく反射的にその反対を主張する。逆らう。噛みつく。
だから「ここは日本だから歴史と言えば日本史に決まっている」という考えにも「世界史といえばヨーロッパ史だ」という考えにも断固反対するし、「ヨーロッパ中心史観に反対する方法」を論じる際には、中国中心史観、中央ユーラシア中心史観、イスラーム中心史観のどれに対しても考える以前に反対する。
だから巨人人気やセリーグ人気が落ちたらプロ野球の危機だなどという言説はもちろん、アンチ巨人なら阪神だという言説にも絶対にくみしない。
だから野党を応援する場合でも、ただ野党第一党を応援すればいいという発想には、どうにも我慢がならない。
こういう私の前を東南アジアを無視して「アジアは」「世界は」などと語ろうものなら、明白な差別行為として噛みつかれることになる。
さて、これで歴史学と歴史教育、プロ野球に政治など、私の日頃の主張の背景がかなりわかっていただけただろう。
面倒な性格で周りの人も厄介な思いをしてるだろうとは思うが、こればっかりはやめられない。死ななきゃ治らないだろうな。
多くの要素からなる何か大きなものの全体を論じる際に、他にどんな要素があるかも全体がどんな構造であるかもを見ようとせずに(つまりどうやれば本当に全体が論じられるかを考えずに)、とにかくその内部でいちばん人気がある(有名な)一つか二つの要素だけで全体を語り、その他は無視して当然という考え方。たとえば「日本料理といえばスシ、テンプラ」「ベトナム料理といえば生春巻き」とかいうのもそのクチである。
こういうのを見たとき、私は考えるまでもなく反射的にその反対を主張する。逆らう。噛みつく。
だから「ここは日本だから歴史と言えば日本史に決まっている」という考えにも「世界史といえばヨーロッパ史だ」という考えにも断固反対するし、「ヨーロッパ中心史観に反対する方法」を論じる際には、中国中心史観、中央ユーラシア中心史観、イスラーム中心史観のどれに対しても考える以前に反対する。
だから巨人人気やセリーグ人気が落ちたらプロ野球の危機だなどという言説はもちろん、アンチ巨人なら阪神だという言説にも絶対にくみしない。
だから野党を応援する場合でも、ただ野党第一党を応援すればいいという発想には、どうにも我慢がならない。
こういう私の前を東南アジアを無視して「アジアは」「世界は」などと語ろうものなら、明白な差別行為として噛みつかれることになる。
さて、これで歴史学と歴史教育、プロ野球に政治など、私の日頃の主張の背景がかなりわかっていただけただろう。
面倒な性格で周りの人も厄介な思いをしてるだろうとは思うが、こればっかりはやめられない。死ななきゃ治らないだろうな。
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左利き
阪大の同僚や学生はみんな知っていることだが、私は左利きである。
昨日の試験で左利きの学生に注目したのはそのせいである。
きゅうくつそうに字を書いている左利きの学生を見ると親近感がわく。
政治思想が左寄りになったのも、左利きのせいだと思っている(??)
ただし「左党」より「砂糖」が好きなのはご存じのとおり。
私の小さいころは、まだ「ぎっちょ」をムリヤリ矯正した時代だった。
ところが私は頑固に抵抗したというか、ウルトラ不器用で右手が使えるようにちっともならなかったのだと思う。
おまけにアメリカ帰りのインテリの親が「左利きを無理に矯正すると情緒不安定になるおそれがある」とかいう知識をもっていて、たぶん幼稚園や小学校の先生にも話してくれたおかげで、無理に直さなくてすんだ。
ただ、習字だけは左手ではどうしようもないのでつらかった。
大学で専門が決まってから思ったのは、インドとかを選ばなくてよかったこと。
左手は不浄の手とか言われて食事に使えないのは困る。
もうひとつ、大学で不愉快だったのは「右=正しい、まっすぐな」「左=曲がった」とかいう表現をするフランス語の授業だった。
昨日の試験で左利きの学生に注目したのはそのせいである。
きゅうくつそうに字を書いている左利きの学生を見ると親近感がわく。
政治思想が左寄りになったのも、左利きのせいだと思っている(??)
ただし「左党」より「砂糖」が好きなのはご存じのとおり。
私の小さいころは、まだ「ぎっちょ」をムリヤリ矯正した時代だった。
ところが私は頑固に抵抗したというか、ウルトラ不器用で右手が使えるようにちっともならなかったのだと思う。
おまけにアメリカ帰りのインテリの親が「左利きを無理に矯正すると情緒不安定になるおそれがある」とかいう知識をもっていて、たぶん幼稚園や小学校の先生にも話してくれたおかげで、無理に直さなくてすんだ。
ただ、習字だけは左手ではどうしようもないのでつらかった。
大学で専門が決まってから思ったのは、インドとかを選ばなくてよかったこと。
左手は不浄の手とか言われて食事に使えないのは困る。
もうひとつ、大学で不愉快だったのは「右=正しい、まっすぐな」「左=曲がった」とかいう表現をするフランス語の授業だった。
将棋と歴史
私は頭が文系なので強くはならなかったが、高校で囲碁将棋同好会、大学で将棋部に入っていた。
*ちなみに阪大の大学院文学研究科には糸谷哲郎さんという「新人王」のタイトルもとったプロ棋士がいて、哲学を研究している。哲学と数学は近いところがあるのだろう。
**ついでに皆さんは、「将棋のプロ」はどうやって養成され、どうやってカネを稼いでいるかご存じですか?
最近は忙しいのと相手がいないのでまったく指さないが、新聞の将棋欄はいまでも毎日読む。
将棋と将棋界の歴史はいろいろ興味深い点があり(将棋を含む各種盤上遊戯を研究する「遊戯史学会」という立派な学会もある)、歴史の研究や教育にもけっこう役に立つ。
よく知られているとおり、世界中で敵から取った駒を使用できるのは日本の将棋だけである。
チェスなど外国の将棋は戦いが進んで駒を取り合うと動かせる駒が減るが、将棋はそうではないので、可能な手の数が減らない。コンピューターが人間の強豪に勝つのがチェスよりずっと遅かったのは、この将棋の特性のためだといわれる。
このような高度の独自性をもつ一方で、海外への普及は囲碁に比べて圧倒的に遅れている。
そのあたり、日本史学界とそっくりではないか。
持ち駒使用については、中世前期の武士の、裏切りは当たり前という風潮を背景に成立したルールだという俗説があるが、プロの9段になった木村義徳さん(戦前戦後の大名人木村義雄の息子さんで、早稲田の東洋史で中国古代史を研究し修士まで行った方である)は、従来の説より早く持ち駒使用は成立したものと推測している。

将棋の歴史については木村9段以外にも、増川紘一さんや大内延介9段の著作が知られている。
海域史に関係ありそうなのが、将棋の駒に「金」将、「銀」将、「桂」馬、「香」車などお宝にかかわる名前が多いことで、これは、「象」「馬」「砲」など戦争に直接関係する駒が多いチェスやインド、中国などの将棋とは違っている。東南アジアから海上の道を経由して日本に将棋が伝来したことを意味するのではないかという説もある。
将棋界が囲碁界に比べて圧倒的に遅れている点のもうひとつは、女性への普及である。
囲碁のプロでは女性の8段がおり、低段同士なら女性が男性に勝つことは珍しくもなんともないが、将棋では里見香奈女流名人が、やっと奨励会(プロ棋士養成機関)の初段になったところだ。「将棋とジェンダー」という研究テーマが成り立つにちがいない。
全体に将棋界(プロの団体である日本将棋連盟)は、相撲協会と似て社会性が弱い面があるが、さすがに現在では、昔風の「将棋バカ」は少なくなり、かわりに社会の中で考えるとか社会に通じる言葉で将棋を語ろうという志向性をもったプロが出現している。
名人戦で挑戦権を獲得したばかりの羽生善治さんは、その一人である。

本屋で見つけたこの本は、さらっと書いてるがけっこう面白い。
*ちなみに阪大の大学院文学研究科には糸谷哲郎さんという「新人王」のタイトルもとったプロ棋士がいて、哲学を研究している。哲学と数学は近いところがあるのだろう。
**ついでに皆さんは、「将棋のプロ」はどうやって養成され、どうやってカネを稼いでいるかご存じですか?
最近は忙しいのと相手がいないのでまったく指さないが、新聞の将棋欄はいまでも毎日読む。
将棋と将棋界の歴史はいろいろ興味深い点があり(将棋を含む各種盤上遊戯を研究する「遊戯史学会」という立派な学会もある)、歴史の研究や教育にもけっこう役に立つ。
よく知られているとおり、世界中で敵から取った駒を使用できるのは日本の将棋だけである。
チェスなど外国の将棋は戦いが進んで駒を取り合うと動かせる駒が減るが、将棋はそうではないので、可能な手の数が減らない。コンピューターが人間の強豪に勝つのがチェスよりずっと遅かったのは、この将棋の特性のためだといわれる。
このような高度の独自性をもつ一方で、海外への普及は囲碁に比べて圧倒的に遅れている。
そのあたり、日本史学界とそっくりではないか。
持ち駒使用については、中世前期の武士の、裏切りは当たり前という風潮を背景に成立したルールだという俗説があるが、プロの9段になった木村義徳さん(戦前戦後の大名人木村義雄の息子さんで、早稲田の東洋史で中国古代史を研究し修士まで行った方である)は、従来の説より早く持ち駒使用は成立したものと推測している。

将棋の歴史については木村9段以外にも、増川紘一さんや大内延介9段の著作が知られている。
海域史に関係ありそうなのが、将棋の駒に「金」将、「銀」将、「桂」馬、「香」車などお宝にかかわる名前が多いことで、これは、「象」「馬」「砲」など戦争に直接関係する駒が多いチェスやインド、中国などの将棋とは違っている。東南アジアから海上の道を経由して日本に将棋が伝来したことを意味するのではないかという説もある。
将棋界が囲碁界に比べて圧倒的に遅れている点のもうひとつは、女性への普及である。
囲碁のプロでは女性の8段がおり、低段同士なら女性が男性に勝つことは珍しくもなんともないが、将棋では里見香奈女流名人が、やっと奨励会(プロ棋士養成機関)の初段になったところだ。「将棋とジェンダー」という研究テーマが成り立つにちがいない。
全体に将棋界(プロの団体である日本将棋連盟)は、相撲協会と似て社会性が弱い面があるが、さすがに現在では、昔風の「将棋バカ」は少なくなり、かわりに社会の中で考えるとか社会に通じる言葉で将棋を語ろうという志向性をもったプロが出現している。
名人戦で挑戦権を獲得したばかりの羽生善治さんは、その一人である。

本屋で見つけたこの本は、さらっと書いてるがけっこう面白い。
知らない食べ物を見ると
今日は雑談。
私は昔から、知らない食べ物を見ると、甘い物に限らず、つい手が出るたちである(ベトナム留学中にはそれで失敗もずいぶんしたが、基本的には外国研究に有利な性格だと思っている)。ちなみに東南アジアというのは、酒は飲めても飲めなくてもどちらでもOKだが、食い意地が張った人間にはこたえられない世界である。
昨日、スーパーで長崎名産「かす巻き」というのを売っていたので、やっぱり買ってしまった。砂糖をまぶした皮付きのカステラであんこを巻いたようなもの。ゆずあんのを買ったが、愛媛のタルトともちょっと食感がちがう、微妙な味。

「知らないところに行くのがうれしい」
これも私の性格である。外国史など異文化・異世界の研究者には必要な条件だと、偉そうな顔をして学生にはよく話す。国内も含め、知らないところや知らない人の前ではものすごく緊張して疲れる人を見かけるが、それでは外国の研究はたいへんだろう。外国に行かず、外国人にも会わずにパソコンとネットだけでできる外国研究(逆にそちらは私の苦手である)というのもありうるが、それでできないこともたくさんある。
どの学問でも、「それをするのがうれしい」「やりだしたらやめられない」というものがあって、しかもそれを可能にする広い意味での体力があるのでなければ、なかなかうまく行かないのではないか。もちろんそれは必要条件にすぎず十分条件ではないのだが。
話はとぶが、
今日の帰宅後は、先日買ったポリーニのショパン・ノクターン集のCDを聞く。
2005年の録音だが、とても落ちついた感じの柔らかい演奏で、ポリーニもずいぶん変わったのかなと思う。
最初に世界をあっと言わせたショパンのエチュードを聞いたのは、高校生のころだった。
それまでに聞いたショパンとは(うまく言葉にできないが)、音の力も輝きも全然ちがう、圧倒的な演奏であるのが私にも感じられた。それ以来、ポリーニのエチュードを聞いた回数は、百回では全然きかない。
たとえばダン・タイ・ソンの柔らかいが強靱なショパンも好きだが、ポリーニは別格に感じられる。
さて、大学は学年末試験や卒論・修論の口頭試問、博士論文の公開審査、大学院と学部の入試、などなどの季節に入った。
みんな頑張ってほしい。
私はこれらの仕事や自分の論文書き(英語や日本語やいろいろ)と並行して、4月からの史学概論、それに新設の「リーディング大学院」での歴史の授業(いろいろな研究家の院生が集まっているところで5コマで歴史の考え方を学ばせる←私はこれも「自分の専門に引きつけたランダムな断片の提示」に終わらせずに、なんらかの「全体像」を見せたい)などの組み立て、それに高校の「歴史基礎」の方向性も考えなければならない。
これは2月戦役、3月戦役、4月戦役。。。どこまで続くのだろう。
自分の能力を顧みずにあれこれ風呂敷を広げるからこういうことになるのだが、
負けるもんか。
ベトナム人民のしぶとさ、すばやさに学ぶのは今だ。
私は昔から、知らない食べ物を見ると、甘い物に限らず、つい手が出るたちである(ベトナム留学中にはそれで失敗もずいぶんしたが、基本的には外国研究に有利な性格だと思っている)。ちなみに東南アジアというのは、酒は飲めても飲めなくてもどちらでもOKだが、食い意地が張った人間にはこたえられない世界である。
昨日、スーパーで長崎名産「かす巻き」というのを売っていたので、やっぱり買ってしまった。砂糖をまぶした皮付きのカステラであんこを巻いたようなもの。ゆずあんのを買ったが、愛媛のタルトともちょっと食感がちがう、微妙な味。

「知らないところに行くのがうれしい」
これも私の性格である。外国史など異文化・異世界の研究者には必要な条件だと、偉そうな顔をして学生にはよく話す。国内も含め、知らないところや知らない人の前ではものすごく緊張して疲れる人を見かけるが、それでは外国の研究はたいへんだろう。外国に行かず、外国人にも会わずにパソコンとネットだけでできる外国研究(逆にそちらは私の苦手である)というのもありうるが、それでできないこともたくさんある。
どの学問でも、「それをするのがうれしい」「やりだしたらやめられない」というものがあって、しかもそれを可能にする広い意味での体力があるのでなければ、なかなかうまく行かないのではないか。もちろんそれは必要条件にすぎず十分条件ではないのだが。
話はとぶが、
今日の帰宅後は、先日買ったポリーニのショパン・ノクターン集のCDを聞く。
2005年の録音だが、とても落ちついた感じの柔らかい演奏で、ポリーニもずいぶん変わったのかなと思う。
最初に世界をあっと言わせたショパンのエチュードを聞いたのは、高校生のころだった。
それまでに聞いたショパンとは(うまく言葉にできないが)、音の力も輝きも全然ちがう、圧倒的な演奏であるのが私にも感じられた。それ以来、ポリーニのエチュードを聞いた回数は、百回では全然きかない。
たとえばダン・タイ・ソンの柔らかいが強靱なショパンも好きだが、ポリーニは別格に感じられる。
さて、大学は学年末試験や卒論・修論の口頭試問、博士論文の公開審査、大学院と学部の入試、などなどの季節に入った。
みんな頑張ってほしい。
私はこれらの仕事や自分の論文書き(英語や日本語やいろいろ)と並行して、4月からの史学概論、それに新設の「リーディング大学院」での歴史の授業(いろいろな研究家の院生が集まっているところで5コマで歴史の考え方を学ばせる←私はこれも「自分の専門に引きつけたランダムな断片の提示」に終わらせずに、なんらかの「全体像」を見せたい)などの組み立て、それに高校の「歴史基礎」の方向性も考えなければならない。
これは2月戦役、3月戦役、4月戦役。。。どこまで続くのだろう。
自分の能力を顧みずにあれこれ風呂敷を広げるからこういうことになるのだが、
負けるもんか。
ベトナム人民のしぶとさ、すばやさに学ぶのは今だ。
牛の気持ち
堅い話題が続いたので息抜きをひとつ。
好きな動物はいろいろあるのだが、親近感という点では牛である。
ベトナムの田んぼや道で、スローモーだが黙々と働く牛、のんびり寝そべる牛あるいは水牛を見ると、「同族意識」を感じてしまう(最近のおしゃべりな私しか知らない人は意外に思うかもしれないが、子供のころの私を知っている人なら納得してくれるだろう)。
年末年始の調査でも、あちこちでつい写真を撮ってしまった。ドイモイ前の牛と違って、このごろの牛は私のようにがりがりにやせてはいないが。



そういいながら私はバター、クリームなどの乳製品だけでなく、牛肉も好きである。
さらに今回のバクザン調査では、流行だということで水牛の料理を食べてしまった。食肉用に飼育しているのだそうで、思ったより柔らかくて、たしかにおいしかった。

牛さん、水牛さん、ごめんなさい。
好きな動物はいろいろあるのだが、親近感という点では牛である。
ベトナムの田んぼや道で、スローモーだが黙々と働く牛、のんびり寝そべる牛あるいは水牛を見ると、「同族意識」を感じてしまう(最近のおしゃべりな私しか知らない人は意外に思うかもしれないが、子供のころの私を知っている人なら納得してくれるだろう)。
年末年始の調査でも、あちこちでつい写真を撮ってしまった。ドイモイ前の牛と違って、このごろの牛は私のようにがりがりにやせてはいないが。







そういいながら私はバター、クリームなどの乳製品だけでなく、牛肉も好きである。
さらに今回のバクザン調査では、流行だということで水牛の料理を食べてしまった。食肉用に飼育しているのだそうで、思ったより柔らかくて、たしかにおいしかった。


牛さん、水牛さん、ごめんなさい。
夏至

今日は夏至。
私の名前の「至朗」は夏至の日に生まれたことと、ネクラな父親のようにならずに明朗に育ってほしいという母親の願いを込めて命名されたのだと、子どものころに聞かされた覚えがある。
そうは言っても日本列島中央部のこの時期は梅雨で、あまり明るい天気にならないことが多い。今日も「雲が多くところどころでにわか雨や雷雨がある」といった予報が出ている。職場でも、いいこともあるのだが気分を暗くすることもつぎつぎ起こる。すぐに解決しそうもないがだれにも言えない、そういうことがあると精神衛生によくない。
いっぽう、25年前のハノイの夏至は青空だった。梅雨がないため死ぬほど暑く、学年末試験が終わった直後の誕生日に友人とビールを浴びるほど飲んだら、夜中に熱を出してそのままデング熱を発症し、しばらく入院するはめになった。ほかにもトラブルや失敗がたくさんあった。他人に迷惑もかけた。それでも、私の気分は青空だった。無心の明るさがあった。