最初に思いついた替え歌

確定申告の受付方法が変わって税務署で延々と時間を費やしている間に、ふと大昔の歌の替え歌など思いついた。
下に書いた歌よりこっちを先に思いついてFBに書いたものである。いや、別に国税庁長官とか理財局のことなど言ってませんよww

君の改竄は 果てしなく多い
だのになぜ 歯を食いしばり
君は消すのか そんなにしてまで

君のあの人は 今も薄笑い
だのになぜ 何を隠して
君は消すのか あてもないのに

君の忖度は 絶望へと続く
朝にまた スクープが出るとき
馬鹿殿はまた 暴走はじめる
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言葉遊び

一字違いで大違い

昔の日本で企業が競ったカイゼン
今の日本で役所が競うカイザン

やるはずだったこと 改憲
やってしまったこと 改竄

来年あるのは改元
去年あったのは改竄

留学生の皆さん、覚えられますか。

替え歌

若い人はこれの本歌など知らないだろうな。

官僚が夜なべをして
改竄してくれた
野党の追及
きびしかろうて
せっせと消しただよ
官邸に報告とどく
忖度のにおいがした

二番をとばして三番

改竄のスクープ痛い
大臣でも隠せない
×××が落ちりゃ
もうすぐ××××
喚問が待ってるよ
デモ隊の叫びが聞こえる
言い逃れがしみとおらん

とりあえず人名は伏せ字にしておこう。

謹賀新年

今ごろになりましたが、皆さん明けましておめでとうございます。
今年の皆さんのご健康・ご多幸と世界の平和をお祈りします。

で、今年は戊戌変法120周年、テト攻勢50周年。世の中が大きく変わる年になるでしょうか。

ルールと日本人

忙しくて全然記事が書けない(より簡便なFBはなんとか書いてるがブログは面倒くさい。そしてしばらくログインしないと確認キーが必要になるなど余計に面倒になる)。その間に総選挙も終わったし野球などのいろんなイベントもどんどん過ぎていく。

今回の総選挙で問われたのは「ルールにもとづく政治」か「多数決で信任されればルールにこだわらなくてよい政治」かであろう。
そこで日本社会の場合問い直されねばならないのは、
(1)現在の選挙のルールは適切・公正かということ。選挙の勝者は常に「多数の信任を得た」と主張するが、実際に積極的に支持する投票が投票総数の半分以下、有権者全体から見れば20%台というような選挙で「多数の信任を得た」といいうる現在の仕組みは根本的に間違っていないだろうか。その意味で1990年代に「政治改革のための小選挙区制導入」の旗を振った人々にいくらか反省が出て来たのも当然だろう。そもそも小選挙区制支持論の背景にある二大政党制が最高の制度だという考えは、農業は何でもかんでも大規模化すべきだという考えと同様、近代日本が英米に洗脳された(むしろ自己洗脳した)結果に過ぎない。いい加減に夢から覚めるときだ。比例代表制を中心にした選挙制度で「小党分立→政治不安定」に直結していない国があることを、真剣に見るべきだ。
 もう一点、若い人は知らないだろうが、昔はもっと選挙期間が長かった。演説会や討論会がたくさんあった。それに戸別訪問が禁止されている先進国はほとんどない。もし現在の日本の選挙制度が「国民の支持」を受けているとすれば、その国民は「熟議などという面倒なことはイヤだ。選択はなるべく単純にしたい」と考えていることを示す。それは社会主義国などの独裁国家の「形式上の信任投票」としての選挙--社会主義国にもたいていは選挙があることを、皆さんご存じですか?--と限りなく近いのではないか。
(2)そこからかなり飛躍だが、先週の講義で「海外で傍若無人に振る舞う日本人」と「外国人のやり方を過剰に気にしてそれに迎合する日本人」に共通する「国際共通ルール」に関する考え方は何か、という問いを出した。私の答え(同じことをコメントペーパーに書いた学生がいた)は、「外国人と話し合って共通ルールを作るという発想や能力の欠如」である。だから「日本のムラ社会の常識」で突っ走るか、相手にひたすら合わせるかの両極端になる。どちらにしても国際共通ルールは自分の外にある。
 柔道やスキーのジャンプなどがルール変更で損をしてきたスポーツ界で、この問題は比較的広く認識されているかもしれない。国際政治の世界でも同じことはたくさんあるだろう(それが「国難」を招いている)。そして、選挙制度を含む国内政治も同じじゃないだろうか。ルールは(国会という遠いところで)だれかが決める。それは自分のものではない。だから棄権も増える。劇場政治に簡単にのっかる。自分のものではないのはよくないと半分はわかっているところに「押しつけ憲法を自分たちの手で変えよう」と囁かれると引っかかる。。。

「ルールか人治か」という対立を不毛な言い合いにさせないためにも、自分たちでルールを作るという面倒な経験を、国民が積まなければなるまい。

一つのボールにチーム全員が群がる子供のサッカー

今朝の毎日新聞(大阪本社発行)「ひと」欄は、謝罪行脚を続ける元福島第一原発副所長・増田哲将さん(80)の紹介。

2011年の事故後に自らを「大罪の共犯者」と断じ、謝罪と鎮魂の行脚を続けているのだそうだ。
東電の体質や、自分がそれを改革するには力不足だったことなどにふれたあと、2011年の事故に言及する。
「1号機という一つのボールにチーム全員が群がる子供のサッカーのようだった」。優先順位を自ら判断し、2号機や3号機を守るために人を割り振れば、事態悪化は防げたと感じている。

私もかつて、「一つのボールに全員が群がる」ようではサッカーは勝てないという表現で、みんなが同じことをやろうとする日本の歴史学界・教育界の体質を批判したことがある。全員共通の同じ小さな事をやらせ、完璧に出来た少数の生徒だけにより大きな事や別のことに取り組むのを許すという従来の日本の教育の仕組みからは、こういう事態が必然的に生まれる。
といっても、1990年代からの教育改革が中途半端に終わった結果、現状は「小さなことを完璧に出来る生徒が激減し、大きな事や別の事を考えられる生徒は大して増えていない」という悲惨なことになっているのだと思うが、「まず基礎知識」とかいう歴史教育の発想は、以前のままである。

「1つのボールにチーム全員が群がらない状況をつくる」「ただしそれは、単にサボって立っているメンバーがいるという意味ではない」という教育は、どうやったら広げられるのだろう。
プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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